出生から大学入学、伊東胡蝶園入社まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 20:47 UTC 版)
「花森安治」の記事における「出生から大学入学、伊東胡蝶園入社まで」の解説
1911年、兵庫県神戸市に生まれる。神戸市立雲中小学校の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校から旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。 1933年、松江高等学校卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、当時6万部を発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わる。当時の編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平、田所太郎などがいた。 大学在学中の1935年、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わる。1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き文字で顧客に語りかける、その後の『暮しの手帖』を誌面のキーともなる、個性的なスタイルを確立させている。 就職により生活の目途が立ったため、学生の身分を維持したまま結婚した。
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