出生から大学進学まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 04:54 UTC 版)
「アラン・チューリング」の記事における「出生から大学進学まで」の解説
母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠した。父のジュリアス・チューリングは、当時インド高等文官であり、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えて、ロンドンのメイダヴェールに戻った。1912年6月23日、アランが誕生した。現在、アランが生まれた病院(現在はホテル)には、それを記念したブルー・プラークがある。 父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングスを行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。 6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。1926年、14歳でシャーボーン・スクール(英語版)に入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。 シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「どっちつかずにならないと良いですが。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。 しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。 同性の親友であるクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。
※この「出生から大学進学まで」の解説は、「アラン・チューリング」の解説の一部です。
「出生から大学進学まで」を含む「アラン・チューリング」の記事については、「アラン・チューリング」の概要を参照ください。
- 出生から大学進学までのページへのリンク