出生から即位
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「ユスティニアヌス1世」の記事における「出生から即位」の解説
のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にダルダニア州(英語版)タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民サッバティウスの子として生まれた。ラテン語を話す彼の家族はトラキア系ローマ人またはイリュリア系ローマ人であると考えられている。のちに彼が用いるコグノーメンの Iustinianus は叔父のユスティヌス1世の養子となったことを意味する。彼の治世中に出身地から遠くない場所にユスティニア・プリマを建設している。母ウィギランティアはユスティヌスの姉だった。 叔父のユスティヌスは近衛隊(Excubitores)に属しており、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した。このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた。彼はしばらく近衛隊に勤務していたが、経歴の詳細については分かっていない。ユスティニアヌスと同時代の年代記編者ヨハネス・マララスはユスティニアヌスの外見について背が低く、色白で、巻き毛、丸顔の美男子だったと述べている。もう一人の同時代の年代記編者プロコピオスは(おそらく中傷だが)ユスティニアヌスの外見を暴君ドミティアヌスに喩えている。 518年にアナスタシウス1世が崩御すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した。ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。ユスティニアヌスは大望を抱き、共同皇帝になる以前から事実上の摂政の役割を果たしていたとされるが、それを確認する証拠はない。治世の末期にユスティヌスが老衰するとユスティニアヌスは事実上の統治者となった。521年にユスティニアヌスは執政官に任命され、後に東方軍司令官ともなっている。 525年頃にユスティニアヌスは20歳年下の踊り子テオドラと成婚した。当初、ユスティニアヌスは階級の違いのために彼女と成婚できなかったが、叔父の皇帝ユスティヌス1世が異なる階級間の結婚を認める法律を制定した。テオドラは帝国の政治に大きな影響を与えるようになり、後代の皇帝も貴族階級以外から妻を娶るようになった。この成婚は醜聞となったものの、テオドラは非常に知的で、抜け目なく、公正な性格を示してユスティニアヌスの偉大な後援者となった。 ユスティヌス1世の崩御が迫る527年4月1日にユスティニアヌスはカエサル(副帝)に就任し、同年8月1日のユスティヌス1世の崩御により単独統治者となった[要出典]。
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出生から即位
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「カール12世 (スウェーデン王)」の記事における「出生から即位」の解説
1682年6月17日にスウェーデン王カール11世とデンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の娘ウルリカ・エレオノーラの子として生まれた。国王夫妻には4人の男子がいたがカールのみが成長した。他にホルシュタイン=ゴットルプ家のフレデリク4世に嫁いだ姉ヘドヴィグ・ソフィアと、ヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒと結婚、後にスウェーデン王位を継承した妹ウルリカ・エレオノーラがいる。 幼少期のカールはもっぱら母ウルリカ・エレオノーラから教育を受け、その人格形成に大きな影響を与えた。4歳になると優秀な教師陣がつけられて帝王学を教え込まれ、肉体鍛錬も欠かさず4歳前に乗馬を覚えている。射撃術にも熟達し、11歳の時に熊を一撃で射殺して父王を悦ばせている。 1692年7月、10歳の時に母が死去、それから4年足らず後の1697年4月に父王も没し、14歳10ヶ月でスウェーデン王に即位した。若年であったため6人の摂政が配されたが、議会との内紛のために数カ月でカール12世に全権が委譲され親政を開始した。
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