出生から出家まで
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母の名も、出家前の俗名も不明である。記録に初めて表れたのは大坂城落城直後でありそれ以前には無い。同時代の日記『駿府記』に大坂落城の7日後の元和元年(1615年)5月12日条に「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」とあるのが初出である。 なお、『台徳院殿御実紀』巻37、元和元年5月12日条には「これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを」とあるが、『台徳院殿御実紀』は19世紀前半に編纂されたものであり、同時代の史料には見られない。また、『台徳院殿御実紀』は「京極若狭守は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず」と八歳と記しているが、同時代史料では、『駿府記』のほか大坂落城の10日後の細川忠興書状などでも七つとなっており、慶長14年(1609年)の生まれと見られる。 同母か異母かは不明ながら、天秀尼の年子の兄・国松は直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが『駿府記』『台徳院殿御実紀』にある。 しかし天秀尼の方は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命された。『台徳院殿御実紀』前述の5月12日条には「北方(千姫)養ひ給いしなり」と、大坂城内に居た頃から千姫の養女であったとも読める記述があるが、東慶寺の由緒書には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」と記されている。「大坂陣山口休庵咄」などにも、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、祖母・淀殿の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあるため、天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り、落城後に千姫の養女となったと見られる。
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出生から出家まで
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1914年(大正3年)11月5日、東京都新宿区天神町で、父の小池弥八と母チヨの二男三女の二男として生まれ、名前を昴と言う。1916年(大正5年)心叟が2歳の時に父が死去したことにより、母は子供達を連れて島根県松江市の故郷に戻った。そして生活苦のため、一時昴は義理の祖父母に預けられたり、尋常小学校を転校したり、また生活のため新聞配達をするなどして、1929年(昭和4年)に、ようやく15歳で母衣高等小学校を卒業した。そしてこの年に高等教育受けられるということで、松江市枕木町、臨済宗南禅寺派の華蔵寺で水野海信の小僧となって出家。1932年(昭和7年)、小池は京都市紫野中学4年に編入して、1934年(昭和9年)に卒業した。その後はしばらく、恩返しのため華蔵寺に帰って寺の仕事を手伝うのであった。
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