出生から博徒としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:32 UTC 版)
「祐天仙之助」の記事における「出生から博徒としての活動」の解説
甲府元柳町の修験者、清長院由玄の忰・清長院由天として生まれる。(正式な法名は「由天」だが「祐天」と記される場合もある。) 『藤岡屋日記』に拠れば、祐天は若い頃より「三人力」の豪傑で、剣の稽古を好み、方々で喧嘩をしても一度として負けたことがなかったことから、自らのことを「山本勘助の末流である」と豪語していたと言う。やがて甲府柳町の大親分三井卯吉の代貸(貸元の下)となり、一人前の道楽者として名を知られるようになる。 ある時、駿府二丁町の遊郭で、祐天は一人の遊女を見初め、彼女を無断で連れ出したことから大騒動になり、遊郭の番人数十人と斬り合いになった。この時、祐天は自らも疵を負ったが、相手を多数傷つけたので、遊郭の主が折れて女を祐天に下げ渡すこととなる。この騒動で侠客としての名を高め、多数の子分を抱える身となったと言う。 当初、祐天は卯吉の配下として甲府を中心に活動していたが、やがて勝沼(甲州市勝沼)を本拠に勢力を構え、兄弟分の国分村(笛吹市一宮町)の国分三蔵と共に、竹居村の竹居安五郎(吃安)や、安五郎の弟分である上黒駒村の黒駒勝蔵らと敵対した。また、市川大門の博徒である鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟とは仇敵の間柄であり、更に駿河の清水次郎長の妻・おちょう(初代)の実兄である江尻大熊の子分を殺害し、次郎長とも敵対関係にあった。 甲斐国では嘉永2年(1849年)に津向文吉が捕縛され八丈島に遠島となり、嘉永4年(1851年)には竹居安五郎が捕縛され伊豆新島に遠島となった。これにより甲斐では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助に敵対する大勢力がいない一時的な空白期にあったことが指摘される。 「伊豆国韮山江川家文書」によれば、こうした状況のなか、嘉永6年(1853年)4月には国分三蔵の子分である博徒・勘七の兄である直五郎が芦川村の政右衛門・斧三郎により殺害される事件が発生した。勘七は三蔵・祐天の助力を得て報復を企て、一方政右衛門・斧三郎は武蔵の博徒・岩五郎を味方につけ、両者は対峙した。これに対して役人は博徒取り締りを強化し、勘七と祐天は甲斐から逃亡するが、両人は伊豆国の韮山代官・江川太郎左衛門に捕縛されたという。 嘉永6年には竹居安五郎が新島を脱出して甲斐へ復帰し、さらに安政3年(1853年)には安五郎兄弟と黒駒勝蔵と同盟を結ぶことで、甲斐では安五郎・勝蔵の勢力と三井卯吉・国分三蔵・祐天仙之助の勢力が対峙した。
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