出生から出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:18 UTC 版)
群馬県富岡市の一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)旧蔵の「大般若経」断簡(現在は千葉県山武郡芝山町のはにわ博物館所蔵」)には「壬午年生美濃国圓空」と記され、円空は壬午年すなわち寛永9年(1632年)の出生で美濃国の生まれであるとされる。 具体的な生地は不明であるが、寛政2年(1790年)の伴蒿蹊『近世畸人伝』では円空の生地を「美濃国竹が鼻」とし、これは岐阜県羽島市竹鼻町とされる。蒿蹊の友人には画家の三熊思考がおり、思考が岐阜県高山市丹生川町の千光寺を訪れており、蒿蹊は思考を介して知った千光寺の伝承を基に円空の生地を「竹が鼻」としている。また、下呂市に所在する薬師堂の木札でも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている。千光寺所蔵の館柳湾『円空上人画像』(寛政12年(1800年)作)の跋にも円空の生地を「竹が鼻」と記している。また、下呂市金山町祖師野の薬師堂に伝わる文政9年(1826年)作『圓空彫刻霊告薬師』の木札にも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている。 一方、愛知県名古屋市中川区の荒子観音寺に伝わる天保15年(1844年)の十八世・金精法印『淨海雑記』では『近世畸人伝』を引用しつつも、円空の生地を「西濃安八郡中村」の生まれとしている。長谷川公茂は「安八郡中村」に円空の痕跡が残されていないことから、実際に円空の生地としての伝承が残されていたのは長良川を挟んで対岸に位置し、円空開祖の中観音堂が所在する「中島郡中村」であるとしている。ほか、茨城県笠間市大町に所在する月崇寺の観音像背銘に「御木地土作大明神」とあることから、円空の生地を岐阜県郡上市美並町とし、「木地土」を「木地士」と読み、円空の出自を木地師とする説もある。これに関して小島梯次は円空像の背銘には通常尊名のみが記され文章を書く事例が見られない点や、円空の時代に「木地師」は「木地屋」と呼ばれている、「木」と「本」の読み違えなどから、「御木地士作大明神」は「御本地土作大明神」作と読むべきであると指摘し、さらに円空の郡上市美並町出身とする説を否定している。 円空に関する記録の最初の所見は寛文3年(1663年)11月6日で、郡上市美並町根村に所在する神明神社の棟札によれば、同社の天照皇太神と阿賀田大権現、八幡大菩薩を造像している。これ以前に出家していると見られているが、円空の出家に関しても諸説が存在する。 『近世畸人伝』や『淨海雑記』、『金鱗九十九塵』では幼少期に出家したとのみ記しており、『淨海雑記』では天台宗の僧となり、長じて愛知県北名古屋市の高田寺において修行したと記している。『金鱗九十九塵』では円空は最初は禅門にあり、後に高田寺で修行したとしている。一方、岐阜県立図書館所蔵の明治5年(1872年)の『真宗東派本末一派寺院明細帳 拾五冊之内十』のように円空を浄土真宗の僧とする説もある。さらに、円空は郡上市美並町の粥川寺において出家したとする説も見られる。これは貫前神社旧蔵の大般若経断簡の文章を円空が18年前に出家即動法輪をしたと解釈して、その頃に円空がいた粥川寺において出家したとする説であるが、谷口順三や小島梯次は出家から初転法輪までの間には歳月が存在することからこれを否定している。
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