出生から全国デビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 03:52 UTC 版)
「ギジェルモ・ゴロスティサ」の記事における「出生から全国デビューまで」の解説
ゴロスティサは1909年に経済的に恵まれた家庭に生まれ、父親は資格を持つ医者であった。生まれた街で初等教育を受けた後、両親によりカスティーリャ・イ・レオン州ミランダ・デ・エブロの学校へバチジェラート(高等教育留学)に出された。だがゴロスティサはその学校では悪戯っ子で問題児であり、勉強を放棄してサッカーや自由な時間を好んだ。ビスカヤ県に戻ってきたゴロスティサはセスタオにある海軍の工場で働き、そこの旋盤工のオフィスで仕事のやり方を学んだりしていた。 ゴロスティサはセスタオの街でチャバリ(Chavarrí)というクラブへ入団。最初のユースキャリアになった。このクラブには将来アスレティック・ビルバオで一緒にプレーすることになるゴールキーパーのグレゴリオ・ブラスコがいた。それからゴロスティサはビスカヤ県のゲチョに移り住んだ。この街は実家のあるサントゥルツィから川を挟んですぐ対岸にある街だったが、そこのスガサルテ(Zugazarte)に移籍、この時から左ウイングのポジションでプレーし始めた。 ほどなくアレナス・クルブ・デ・ゲチョが30ドゥロ(5ペセタ銀貨の俗称)=150ペセタを支払ってゴロスティサを獲得。入団後すぐに10試合に出場した。しかしせっかくプロになれたにも関わらず、わずかな期間でゴロスティサはクラブ首脳陣と対立し反旗を翻すと、アレナスでプレーすることもビスカヤ県で暮らすこともやめて、遠くアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにいる親戚の家でしばらく過ごした。 兵役義務の為スペインへ戻ると、ガリシア州の軍港都市フェロルで海軍に配属された。同じ勤務地には相当な実力を持ったサッカー選手も来ていたが、そのような兵役中の縁もあって除隊後にゴロスティサは同じ街のラシン・クルブ・デ・フェロルに入団した。ラシン・フェロルではガリシア州選手権を無敗で初優勝。コパ・デル・レイ1929の出場権を獲得し、全国規模の大会にデビューした。 デポルティーボ・アラベスに勝利しゴロスティサもチームの2点目を決めたことで、知名度を上げた。ラシン・フェロルはベスト16でアスレティック・ビルバオの前に敗退するが、ゴロスティサは第1戦で得点し1-1のドローに貢献。これは「インフェルニーニョ(小さな地獄)」と呼ばれるラシン・フェロルの本拠地での試合だったが、敵地での第2戦は0-4で大敗した。第1戦でゴロスティサは、相手チームのヘラルド・ビルバオ選手と知り合った。
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