出生から即位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:07 UTC 版)
属州マウレタニアの植民市ロル・カエサリア(現アルジェリア、シェルシェル (en))で騎士階級の一族に生まれ、上流階級としての教育を受けたと伝えられる。成人後は優れた法律家として名を上げ、当時の皇帝であったセプティミウス・セウェルス帝に行政官僚として登用された。セウェルス帝の死後、息子カラカラがその弟ゲタを殺害して皇帝に即位すると、近衛隊長官に抜擢された。マクリヌスはカラカラ帝からの信頼をおおむね得ていたものの、近衛隊長官の常として帝位を狙っているのではないかと噂を流布された。マクリヌスは些細な理由で周囲を弾圧する暴君が自分に矛先を向けるのを恐れていたとされ、この噂がカラカラ帝の耳に入らぬように苦慮したという。実際、カラカラは次第にマクリヌスにも不審を抱いて粛清を検討していた、とカッシウス・ディオは記録している。 216年、カラカラ帝がパルティアへの遠征に踏み切ったとき、マクリヌスも近衛隊長官として従軍した。軍団はエデッサで冬を過ごし翌年の遠征の準備を行った。217年春、気紛れに軍列を離れ、エデッサの南のカルラエ近くの神殿に向かおうとしたカラカラ帝にも彼は付き従ったが、その途上の4月8日、カラカラ帝は路上で近衛兵ユリウス・マルティアリス(Julius Martialis)に刺殺された。マルティアリスは個人的にカラカラ帝に恨みがあり、道端で放尿中の皇帝を後ろから刺し、逃亡しようとしたところを他の兵士に殺害されたという。マクリヌスはカラカラとマルティアリスの遺骸を回収したが、一部の人間はマクリヌスが事件をけしかけたのではないかと噂した。カラカラに実子はなく、セウェルス朝は一時的に断絶した。 4月11日、マクリヌスは帝位請求者に名乗りを上げた。彼は息子ディアドゥメニアヌスに「アントニヌス」の名を自称させ、アントニヌス朝の復古を大義名分に掲げた。 マクリヌス親子はそれまでの皇帝と異なり、元老院議員ではなく騎士身分であったにもかかわらず、元老院は帝位を承認した。マクリヌスが優れた法律家として実務面で信頼を得ていたことに加え、元老院に敬意を持って接したためと考えられる。
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