博徒間抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/03 05:12 UTC 版)
弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父・和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。 安政5年(1858年)12月29日には甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う。安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を殺害する。同年9月16日には下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲する。 文久元年(1861年)1月15日には駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。同年10月には菊川において下田金平と手打ちを行う。文久3年(1863年)5月10日には天竜川において甲斐国の黒駒勝蔵と対陣する。 元治元年(1864年)6月5日には三河国の平井亀吉に匿われていた勝蔵を形原斧八とともに襲撃する。
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