周太郎の生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 00:49 UTC 版)
周太郎は江戸後期の甲斐国における本格的な博徒間抗争の幕開けを告げる人物として知られ、文政2年(1819年)頃から勢力範囲の近接する一之宮村の神主・古屋左京との抗争が激化する。 両者の抗争は、甲州街道・勝沼宿において古屋左京と千野村幸蔵ほかと、西保村領兵衛の子分・大野村駒蔵間で公論が発生したことに端を発する。駒蔵は西保周太郎派に属する博徒で、領兵衛・駒蔵は一之宮村の古屋左京の子息・小平太宅の襲撃を行う。古屋左京はこの報復として西保中村の領兵衛宅を襲撃するが失敗し、秩父往還において駒蔵と喧嘩を行い、青梅街道沿いの小原村の小原村政兵衛宅に潜伏していた領兵衛の居場所を突き止めたという。古屋左京は政兵衛宅を襲撃すると領兵衛を殺害し、駒蔵にも傷害を加える。 こうした両勢力の抗争の激化により、文政4年(1821年)に西保周太郎は石森村において石森村常兵衛による手打ち式に参加するが、その場で殺害された。享年25。 なお、古屋左京もその後捕縛されて刑死し勢力を壊滅させている。甲府盆地東部では新たに甲府の三井卯吉の子分となった国分三蔵や祐天仙之助らの博徒が台頭する。 周太郎の没後、竹川家は博徒活動から経済活動が主体となり、竹川家の墓石の家紋も亀甲に三つ鱗に変化するなど、武田氏末流とする由緒も希薄化した。安政5年(1859年)の横浜開港により甲斐では甲州屋忠右衛門・川手五郎右衛門らが生糸をはじめとする甲州物産の輸出を開始した。竹川家も生糸取引を行い、明治時代には製糸工場も営業している。
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