体操嫌いの文学少女(1880-1904)
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「二階堂トクヨ」の記事における「体操嫌いの文学少女(1880-1904)」の解説
1880年(明治13年)12月5日に宮城県志田郡桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる。父方・母方ともに会津藩士の家系であった。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している。1887年(明治20年)、父の赴任地・松山の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する。三本木小では尋常科4年・高等科4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な学問は不要」と考える当時の風潮からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える。高等科4年生(1894年=明治27年)の夏休みに叔父の佐藤文之進(仙台市立立町小学校教師)から『日本外史』を習ったことで学問に目覚め、文学少女に成長した。なお、小学校時代の8年間、トクヨは体操(体育)の授業を受けたことがなかった。 1895年(明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会を経て、同年11月10日に尋常小学校本科准教員の免許を取得する。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった。坂本分教場では老教師が教えていたため、「鬼ごっこをしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った。 分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、宮城県尋常師範学校(宮城師範、現・宮城教育大学)は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない福島民報に手紙を送って福島県尋常師範学校(福島師範、現・福島大学人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した。福島師範には福島県民でないと入学できなかったことから、戸籍上養子縁組すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して1896年(明治29年)3月に福島民報の社長・小笠原貞信の養女となり、小笠原トクヨを名乗った。こうして同年4月に福島師範へ入学、1899年(明治32年)3月に高等小学校本科正教員の資格を得て卒業した。福島師範では体操の授業があり、トクヨはほぼ休まず出席していたが、面白みに欠けたため、心ここにあらずという状態で臨み、「時間の無駄だ」と不満を漏らしていた。この時トクヨが学んだのは、すでに魅力を失っていた普通体操であり、体操が他の教科よりも1段低く見られていたことも手伝って、トクヨはより一層つまらなく感じたのであった。ただし、実地授業でトクヨが体操を教えると高く評価され、卒業まで校内では筒袖・袴姿で過ごすことを許された。 成績優秀で附属小学校の訓導に就くことを求められるも固辞し、安達郡油井村の油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)に赴任し、訓導として尋常科2年生の担任になった。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった。智恵子とは、後に高村光太郎の妻になる高村智恵子のことであり、智恵子はトクヨに懐いた。 1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、女子高等師範学校(女高師、現・お茶の水女子大学)文科に入学する。当時の女高師は高嶺秀夫が校長を務め、和歌の尾上柴舟、体操の坪井玄道をはじめ、安井てつ・後閑菊野らの授業を受けた。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた。なおトクヨ在学中の体操の授業では、矯正術や舞踊が教えられていた。 女高師の学生時代のトクヨは、毎年学年末に不運に見舞われるというジンクスがあった。1年生の時はチフスに感染して4か月間茅ヶ崎の病院に入院、2年生は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した。このうち1・2・4年生の時には学年末試験を受けることができなかった。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級した。特に4年生の試験は卒業をかけたものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた。こうして1904年(明治37年)3月、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した。
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