体操服の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
「日本女子体育専門学校 (旧制)#服装」も参照 留学から帰国したトクヨは、和服が自然な呼吸機能を阻害するので改良しなければならないと考え、「和服式体操服」を考案した。留学先のイギリスで自国の文化を大切にする教育に触れて感銘を受け、ぜひとも体操服を和風にしたいと考えたのであった。 トクヨは1916年(大正5年)10月に貞明皇后が東京女高師に行啓するのに合わせて和服式体操服の「着初め式」を行った。その体操服は、和服から胸枷を取り去り、袖をシャツのようにし、下衣に袴を採用して、帯をひも状にしたものであった。中に肌着を着込むことで寒暑を調整し、足元は靴下を履くか否かは自由とし、足袋でも下駄でも構わないとした。この格好ならば体操科の授業以外にそのまま出席しても何ら問題なく、羽織やコートを上にまとえば外出もできると利点を主張した。着初め式に続き、トクヨは2年生の生徒15人を率いて皇后にダンスを披露し、皇后は「本校の教育一般に進歩の状あり。又特に体育に留意する所あるを見る。」という感想を述べた。せっかく着初め式まで行ったものの、和服式体操服は不採用となり、トクヨは結局、KPTCと同じチュニックを教え子に着せたのであった。 トクヨによる体操服の改良の実践は、非活動的な従来型の衣服が男性への女性の隷属を強いるものであるから、運動を通して衣服を改良し、女性の地位を向上させるという意味合いを持ったものであった。井口阿くりが持ち帰り、永井道明も採用したブルマーも女性の心身の解放を目指した体操服であった。
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