体操教師への覚醒(1904-1912)
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「二階堂トクヨ」の記事における「体操教師への覚醒(1904-1912)」の解説
女高師の卒業後は教師となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・石川県立金沢二水高等学校)であった。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたからであった。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う、とまで思っていた。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌1905年(明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思い込んでいたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっていることを発見し、夏には井口阿くりが講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ。 井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった。幸運にも、体操専門学校を卒業したカナダ人宣教師のフランシス・ケイト・モルガン(ミス・モルガン)が金沢市にキリスト教を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった。トクヨが習った体操はさまざまな体操器具を使うものであったが、器具が整わなくてもできるよう、跳び箱の代わりにトランクを、平均台の代わりにベッド2台の間に渡した板を、水平棒の代わりに柱と柱の間に張った縄を、肋木の代わりに本棚を活用する方法をモルガンは伝授した。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つに至り、石川県の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった。この頃の教え子に時の石川県知事・村上義雄の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て運動会ではプロの楽隊を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けてカドリーユを踊らせたりした。この運動会では、入場券を得られなかった第四高等学校(現・金沢大学)の学生が塀を乗り越えて乱入し、警察官が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ。 1907年(明治40年)7月、トクヨは高知県師範学校(高知師範、現・高知大学教育学部)への出向を命じられた。しかし高知市に来てすぐにマラリアに感染し、入院を余儀なくされた。回復後、教諭兼舎監に着任し、歴史1時間、体操18時間を受け持った。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を語り生徒を喜ばせた、という逸話が残っている。また校長が大切にしている芝生の上で自転車を乗り回し、校長に不満を持つ人たちを痛快がらせたという話もある。高知県でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・高知新聞)に取り上げられた。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では第9師団、高知では歩兵第44連隊で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている。1909年(明治42年)7月31日、トクヨは二階堂姓に戻った。1910年(明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して1911年(明治44年)春に東京女高師助教授に着任した。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった。 東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・永井道明両教授の補佐であった。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職したため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている。
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