中島清次郎と寿司組合の歩みとは? わかりやすく解説

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中島清次郎と寿司組合の歩み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 03:37 UTC 版)

中島清次郎」の記事における「中島清次郎と寿司組合の歩み」の解説

北大路魯山人著作にもあるように、当時京阪神での握り寿司見よう見まねのものがほとんどで、巻き寿司と言えば太巻きのみという時勢のなか、中島本場での修業の腕を活かし京都中央卸売市場錦市場などで自らが吟味した素材仕入れ本物江戸前寿司を高級品としてではなく本来の姿である庶民食べ物として提供することに努めた東京とは気候風土異な京都で、江戸前ネタそのもの寿司再現することは当時輸送技術では不可であったが、基本的な技は店に住み込み修行させた職人同業者伝えながら、素材京都利点活かし京都における握り寿司細巻き寿司等を創り上げていく。東京時代土地柄交流のあった浅草芸人たち関西滞在した折には、江戸前求めて店に通った。特に、堺駿二とは戦後親交続いた1920年大正9年)、営業許可申請簡素化のため各警察単位で各組合中に料理部寿司部・麺類部・喫茶部・洋食部・社交部などが混在する料飲組合」が結成される1930年昭和5年)、京都全市寿司部により「京都組合」が結成され1932年昭和7年中島組合役員経て1942年昭和17年)には組合長となり、以後18年戦中戦後多難な時代対処することとなる。 戦中から引き続く食糧統制加え戦後食料不足もあり、寿司屋申請店の7割近く違法価格流通するヤミ米使用しているという有様だった為、GHQにより1947年昭和22年)「飲食営業緊急措置令」(ポツダム命令)が施行される料飲店の営業実質的に不可能になったため、東京組合有志協力してGHQ交渉、「委託加工制度」を獲得し、なんとかこれを回避する中島もまた東京での縁故活かし共に方策練り京都業界のためにも尽力する。これにより、GHQ命令によって途絶えてまいそうになった日本のすし文化危機救われる京都でのすし委託加工制度東京に遅れること約2年1949年昭和24年1月実施された。 そんな中1950年昭和25年)春、京都組合総会において、当時組合長であった中島発案により「のれんを守り品位高めて共存共栄の実をあげ、会員相互親睦をはかる」ことを目的とした「京都寿司のれん会」が発足し中島初代会長務め戦後の困難時期乗り越え現在までの礎を築く。2代目会長は、職人ではないものの店の経営携わっていた長男の清(きよし、1921年 - 2010年)が務め財政経理の面からも会を支えた。 「京都寿司のれん会」はその後京都髙島屋協賛し「京の味ごちそう展」を開催、また京都新聞との共催事業として「すし教室」を開催、共に現在に続く。現代の名工など、多数輩出している。また、1951年昭和26年3月真摯な姿勢寿司向き合う法的組合として「京都府寿司事業協同組合」の設立至り1958年昭和33年)まで、中島は同組合組合長として在任する生粋江戸っ子である中島京都寿司業界をまとめ、今ある業界活動の礎を築くことが出来たのも、幼い頃からの苦労によって培われたその手腕もさることながらこうした時代背景による影響大きいと思われる

※この「中島清次郎と寿司組合の歩み」の解説は、「中島清次郎」の解説の一部です。
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