中央図書館の建設
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1960年代は図書館の奉仕活動のあり方が問い直された時期であり、東京都でも、都立図書館と区市立図書館との役割分担や協力関係の明確化、都区部と市町村部との財政上の格差の拡大、受験生が閲覧室を占領してしまって他の利用者の自由な読書や調査研究が圧迫されてしまうなどの問題が山積していた。日比谷図書館では増築がなった1961年(昭和36年)に早くも抜本的な改善が必要との結論に達しており、日比谷図書館協議会では一年余りの検討の末、1962年(昭和37年)9月に『東京都の公共図書館総合計画についての提言』をまとめて提出するに至った。提言内容においては、現下の諸問題を解決し日比谷図書館本来の奉仕機能の実現のために都が果たすべき役割が明示され、その中で日比谷図書館がこれまで収集してきた古書や東京資料をまとめて収蔵できる近世資料図書館の新設、古くなった図書資料を保存するための図書館の新設、また中学生、高校生をはじめとする学生や勤労青少年の読書、学習の場となる地域図書館の増設といった方針が示され、はじめて大規模分館の必要性が指摘された。この大規模分館の建設の基本構想をより深く検討すべく国内図書館関係者による意見聴取会が実施され、その結果都立図書館が果たすべき奉仕機能の中で、新設される図書館が参考調査図書館としての機能、近世・近代の学術研究を行う機能、都内公共図書館の相互協力センターとしての機能の3つの領域を担い、日比谷図書館では主として成人を対象として図書資料を提供する図書館機能を担うべきとする方針が示され、両者は一体的に運営されるべきであるとする方向性が示されたのである。新図書館は当面の蔵書規模を150万冊、最終的には500万冊規模を目指し、かつ都心に近く交通至便な場所にあることが望まれたため、1966年(昭和41年)に港区有栖川宮記念公園内の都立教育研究所移転後の跡地が候補地として決定された。1967年(昭和42年)に美濃部亮吉が都知事に就任すると、図書館は都民に提供すべき重要なシビル・ミニマムと位置付けられ、1969年(昭和44年)にはフランス文学者の杉捷夫が日比谷図書館長として迎えられた。杉は市区立図書館を積極的に訪問し第一線図書館の実態を把握し各所の要望を都行政に反映させることに尽力し、多摩地域の都立図書館(青梅・立川・八王子)との連携を密にし、東京都の図書館政策を確立させて図書館整備のあり方を明確化することに努めた。その中で中央図書館建設の具体化と、三多摩地域の老朽化した図書館への対応、多摩ニュータウン整備に関連する都区部と三多摩地域との格差解消についても言及している。都立図書館では司書職の人事制度について確立がおぼつかず、整理課長として新図書館の業務体制の実務に当たっていた森博が1971年(昭和46年)に死去するなどして、杉自身は新図書館開館を前に1972年(昭和47年)7月に辞任してしまうが、日比谷図書館から蔵書を移転して1973年(昭和48年)1月に、東京都立中央図書館が開館に至ったのである。また、1972年には都立江東図書館基本構想が策定され、翌1973年には基本計画の策定に至った。
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