世界“放浪”の旅
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1964年、23歳のときに、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと決心したが資金が足りないため、まず生活水準が高いアメリカで資金を貯めて、その後ヨーロッパに行こうと考え、家族の大反対を押し切って、5月2日、横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへ向かった。片道の船賃は長兄の植村修が援助してくれたが、所持金は、とび職などのアルバイトで貯めた、110ドル(当時・約4万円)と日本円3,500円であった。 ロサンゼルス到着後、フレズノ近くのパレアの農場で、ぶどう摘みなどの仕事をしたが、観光ビザしか持っていなかったので、同年9月末に不法就労で移民局に捕まった。強制送還は免れたが、国外退去処分となったため、10月22日、ニューヨークから船に乗り、フランスのル・アーブルへ向かった。 同1964年10月末、シャモニーに入った。11月10日、ヨーロッパ最高峰のモンブラン(標高4,807m)単独登頂に挑戦した。3日目、ボッソン氷河のヒドゥン・クレバスに落ち、クレバスの底までの落下は避けられたが、怖くなって撤退した。 同年の末、スイスとの国境近くのモルジヌで、1960年スコーバレーオリンピックの男子滑降の金メダリストであるジャン・ヴュアルネが経営するアボリアス・スキー場に就職した。ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした。 1965年、明治大学山岳部のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)(標高7,646m)登山隊(登山隊長・高橋進、以下7人)に途中参加するため、同年2月19日、ネパールのカトマンズに入った。3月31日、ベースキャンプを設営した。4月23日、シェルパのペンバ・テンジンと共に世界初の登頂を果たした。しかし、遠征の計画や準備段階での苦労もしていない自分が登頂し、また、日本の新聞に自分だけが大きく掲載されたのを見て、他の隊員に対して申し訳ないという気持ちになり、隊長・高橋から一緒に日本に帰国しようと言われたが、それを断った。 その後、インドのボンベイ(現:ムンバイ)からフランスのマルセイユ行きの貨客船に乗り、再びモルジヌに戻るが、黄疸(おうだん)を発症し1か月の入院生活をした。 1966年7月、モンブラン単独登頂に成功、続いて7月25日、マッターホルン(標高4,478m)単独登頂に成功した。 同年9月23日、マルセイユから、ケニアのモンバサ行きの船に乗り、アフリカ山行に向かった。 同年10月16日、ケニア山レナナ峰(標高4,985m)に登頂し、10月24日、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5,895m)単独登頂に成功した。10月29日、モンバサから船に乗り、モルジヌに戻った。 1967年8月、グリーンランド単独横断を夢見て、西海岸のヤコブスハウン氷河を半月間、視察した。 同年12月、モルジヌを去り、12月22日、スペインのバルセロナから南アメリカ行きの船に乗った。1968年1月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスに着いた。 同1968年1月19日、アンデス山脈のエル・プラタ(標高6,503m)に登頂、2月5日、南アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6,960m)単独登頂に成功した。2月15日、無名峰(標高5,700m)に初登頂し、母校である明治大学の名前に因んで「明治峰(ピッコ・デ・メイジ)」と命名した。 その後、ボリビアを経てペルーのリマに行き、さらにバスと船を乗り継いで、同1968年4月、イキトスに入った。ここで、北アメリカ行きの船が出る河口までアマゾン川を源流から自力で下ろうと決心した。同年4月20日、ペルーのユリマグアスを出発、単独で6,000kmの距離を筏(いかだ)で流れ下り、6月20日、ブラジルのマカパに到着した。同地で、明治大学山岳部の同期であり、親友の小林正尚の交通事故死を知り、ショックを受けた。 その後、北アメリカ最高峰のマッキンリー(現:デナリ)(標高6,194m)登頂を目指して、カリフォルニアの農場で2か月間働いて山行資金を稼ぎ、アラスカに入るが、単独登頂の許可が下りず、断念した。同1968年9月14日、サンフォード(標高4,940m)に登頂した。 同1968年10月1日、4年5か月ぶりに日本に帰国した。日本への航空運賃は、長兄の植村修が負担した。植村、27歳。
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