三アンリの抗争とナントの勅令とは? わかりやすく解説

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三アンリの抗争とナントの勅令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「三アンリの抗争とナントの勅令」の解説

詳細は「ナントの勅令」を参照 アンリ2世夫婦の子であるフランソワ2世シャルル9世はともに夭折し、その弟で国王自由選挙によってポーランドとなっていたヘンリク1574年に兄のシャルル王が死去する祖国フランスに「逃亡」し、アンリ3世として即位したハプスブルク家スペイン王フェリペ2世1580年ころからギーズ公アンリ率いカトリック同盟露骨に援助するうになると、国王アンリ3世ユグノー接近した。しかし、王弟アンジュー公フランソワ1584年死去し第一王位継承権が王の従兄弟であり、妹マルグリッドの配偶者でもあるブルボン家アンリ・ド・ナヴァルに移るにおよぶと、事態はさらに緊迫したカトリック強硬派にとって、プロテスタント国王誕生看過しがたいことだったからである。ここにおいていわゆる「三アンリ戦いフランス語版英語版)」はいっそう複雑な様相呈したカトリック同盟が再び結成され第8次の、そして最後ユグノー戦争始まったアンリ3世はいったんカトリック同盟側に歩み寄ったが、カトリック勢力異端撲滅失敗した彼のフランス国王としての資格問題したため、王は同盟指導者ギーズ公アンリとも激しく対立し刺客放って1588年ギーズ公暗殺させた。そして今度は、カトリック同盟を敵にまわしてアンリ・ド・ナヴァル結んだが、翌1589年国王もまた同盟側のカトリック修道士によって「邪悪なヘロデ王」の名のもとに暗殺されナヴァルアンリのみが残ったここにおいてフランス王家として260年続いたヴァロワ朝断絶した1589年アンリ3世死によってアンリ・ド・ナヴァルが新王宣言おこないアンリ4世としてフランス国王即位した新国アンリ血統においては正統継承者ではあったが。ユグノー勢力総大将でもあったので、カトリック貴族たちは信仰既得権益を失うことを恐れすなおに新国王の継承認めようとはせず、執拗に抵抗したパリカトリック同盟の「16区総代会」という組織支配下にあり、新王の入市拒んだため、アンリ4世首都にさえ入れなかった。しかし、アンリ4世1593年カトリック改宗しカトリック信者支持獲得することに成功し翌年には敬虔な王装いのもとでパリ入城果たしシャルトル大聖堂成聖式迎えることができた。カトリック同盟残党次々とアンリ4世帰順した秩序回復求め国民の声や、スペイン介入対す懸念広がりなども、新王に味方したアンリ4世カトリック改宗に対して今度改革派側が危機感覚え改革派政治会議全国組織とし、1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能させた。この会議オランダ改革派との合同模索したが、アンリ4世改革派に対してカルヴァン派含めてその信教の自由一定程度認めナントの勅令1598年発布しスペインとも和を結んだ改革派はこれに満足し王権への忠誠誓った。これにより、長い宗教戦争に一応の終止符打たれたことになる。プロテスタントは、ひとつの身分として王国のなかに位置づけられたのであるとはいえナントの勅令あくまでも妥協産物であった信仰の自由は完全とはいえず、カトリックとプロテスタント対す扱いも平等ではなく、あくまでプロテスタントへの寛容表明するとどまっていた。また、プロテスタント側の支配する200余の都市において、礼拝の自由が行政と軍によって保障されるという内容でしかなかったともいわれている。しかしながら勅令国家絶対的であると同時に政治的な党派地域的なまとまりの上に立つ統率者調停者見なすことにつながったので、国家権威をいっそう強固なものにした。 ナントの勅令実施状況監督にあたっては、各州改革派カトリック双方から選ばれ国王親任官が各教区巡回した。ただし、パリ高等法院カトリック聖職者たちはこの勅令を非寛容方向厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟起こして改革派陰に陽に弾圧しようとした1610年改革派にとって最大後ろ盾であったアンリ4世狂信的なカトリック教徒によって暗殺された。それ以降改革派内部には明確な亀裂生じ北部パリノルマンディ改革派王権への服従カトリックとの妥協目指す穏健派」を形成し南部ギュイエンヌラングドック改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いたが、強い危機感抱いた新教徒何度武装蜂起試みた。しかし、その都度鎮圧され、やがて新教徒はその軍事力国家取り上げられた。

※この「三アンリの抗争とナントの勅令」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「三アンリの抗争とナントの勅令」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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