三アンリの抗争とナントの勅令
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「三アンリの抗争とナントの勅令」の解説
詳細は「ナントの勅令」を参照 アンリ2世夫婦の子であるフランソワ2世とシャルル9世はともに夭折し、その弟で国王自由選挙によってポーランド王となっていたヘンリクは1574年に兄のシャルル王が死去すると祖国フランスに「逃亡」し、アンリ3世として即位した。ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世が1580年ころからギーズ公アンリ率いるカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近した。しかし、王弟アンジュー公フランソワが1584年に死去し、第一王位継承権が王の従兄弟であり、妹マルグリッドの配偶者でもあるブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルに移るにおよぶと、事態はさらに緊迫した。カトリック強硬派にとって、プロテスタントの国王の誕生は看過しがたいことだったからである。ここにおいて、いわゆる「三アンリの戦い(フランス語版、英語版)」はいっそう複雑な様相を呈した。カトリック同盟が再び結成され、第8次の、そして最後のユグノー戦争が始まった。 アンリ3世はいったんカトリック同盟側に歩み寄ったが、カトリック勢力は異端撲滅に失敗した彼のフランス国王としての資格を問題にしたため、王は同盟の指導者ギーズ公アンリとも激しく対立し、刺客を放って1588年にギーズ公を暗殺させた。そして今度は、カトリック同盟を敵にまわしてアンリ・ド・ナヴァルと結んだが、翌1589年、国王もまた同盟側のカトリック修道士によって「邪悪なヘロデ王」の名のもとに暗殺され、ナヴァル王アンリのみが残った。ここにおいて、フランス王家として260年続いたヴァロワ朝が断絶した。 1589年、アンリ3世の死によってアンリ・ド・ナヴァルが新王宣言をおこない、アンリ4世としてフランス国王に即位した。新国王アンリは血統においては正統な継承者ではあったが。ユグノー勢力の総大将でもあったので、カトリック貴族たちは信仰と既得権益を失うことを恐れ、すなおに新国王の継承権を認めようとはせず、執拗に抵抗した。パリはカトリック同盟の「16区総代会」という組織の支配下にあり、新王の入市を拒んだため、アンリ4世は首都にさえ入れなかった。しかし、アンリ4世は1593年にカトリックに改宗してカトリック信者の支持を獲得することに成功し、翌年には敬虔な王の装いのもとでパリ入城を果たし、シャルトル大聖堂で成聖式を迎えることができた。カトリック同盟の残党も次々とアンリ4世に帰順した。秩序回復を求める国民の声や、スペインの介入に対する懸念の広がりなども、新王に味方した。 アンリ4世のカトリック改宗に対して今度は改革派側が危機感を覚え、改革派政治会議を全国組織とし、1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能させた。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、アンリ4世は改革派に対してカルヴァン派も含めてその信教の自由を一定程度認めるナントの勅令を1598年に発布し、スペインとも和を結んだ。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。これにより、長い宗教戦争に一応の終止符が打たれたことになる。プロテスタントは、ひとつの身分として王国のなかに位置づけられたのである。 とはいえ、ナントの勅令はあくまでも妥協の産物であった。信仰の自由は完全とはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではなく、あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっていた。また、プロテスタント側の支配する200余の都市において、礼拝の自由が行政と軍によって保障されるという内容でしかなかったともいわれている。しかしながら、勅令は国家を絶対的であると同時に政治的な党派や地域的なまとまりの上に立つ統率者、調停者と見なすことにつながったので、国家の権威をいっそう強固なものにした。 ナントの勅令の実施状況の監督にあたっては、各州の改革派とカトリックの双方から選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。ただし、パリ高等法院やカトリックの聖職者たちはこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。1610年、改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世が狂信的なカトリック教徒によって暗殺された。それ以降の改革派内部には明確な亀裂が生じ、北部のパリやノルマンディの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いたが、強い危機感を抱いた新教徒は何度か武装蜂起を試みた。しかし、その都度鎮圧され、やがて新教徒はその軍事力を国家に取り上げられた。
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