ヨーロッパ巡行と皇帝称号の売却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 13:55 UTC 版)
「アンドレアス・パレオロゴス」の記事における「ヨーロッパ巡行と皇帝称号の売却」の解説
「第一次イタリア戦争」も参照 1490年、アンドレアスはローマからの使節デメトリオスとマヌエル・ラレスを伴って、再びモスクワを訪れた。理由は定かではないがアンドレアスはモスクワで歓迎されず、フランス王国に向かった。フランス王シャルル8世はアンドレアスを歓待し、アンドレアスから白いハヤブサを贈られた返礼に彼の旅費を全額肩代わりした。アンドレアスはラヴァルで、また10月から12月にかけてはトゥールでシャルル8世と共に過ごし、ローマに帰る前には350リーヴルの資金を援助された。1492年、アンドレアスはイングランド王国に行ったが、イングランド王ヘンリー7世はシャルル8世ほど気前の良い歓待はせず、財務大臣のディナム卿に、アンドレアスにふさわしい額の資金を与え帰国の安全を保証するよう命じただけだった。支援者を求めてさまようアンドレアスのヨーロッパ行は、さながら祖父のビザンツ皇帝マヌエル2世パレオロゴスがオスマン帝国に対抗するため1399年から1402年にかけてヨーロッパを巡り援助を求めたのに似ていた。 1490年代、シャルル8世は対オスマン帝国遠征十字軍を積極的に検討し始めた。しかし彼は同時に、南イタリアのナポリ王国をめぐる戦争にもかかわっていた。フランス人枢機卿レイモン・ペラルディは、シャルル8世の十字軍構想を熱烈に支持する一方で、南イタリアの混乱に介入することには、オスマン帝国と戦う前にキリスト教国の間に決定的な亀裂を残すものだとして反対していた。フランス軍が北イタリアまで進軍していた時、ペラルディ枢機卿はシャルル8世がナポリ王国と交戦する前に、彼にビザンツ帝位の公式な請求権を持たせようと考え、王に知らせもせず独自に策動し始めた。 ペラルディ枢機卿はアンドレアスと交渉し、彼がコンスタンティノープル・トレビゾンド両帝位とセルビア専制公の称号を捨てる代わりに4300ドゥカートを得る、そのうち2000ドゥカートは称号放棄が成立した時点で支払われ、残りは月約360ドゥカートずつ支払われる、という取引をまとめた。さらにペラルディ枢機卿はアンドレアスに、彼を守る騎兵500人をシャルル8世持ちで維持すること、ゆくゆくは南イタリアかどこかに領地を与えられ、年金と合わせて年5000ドゥカートを手にできるよう取り計らわれることも約束した。さらには、シャルル8世が自身の陸海軍を使ってモレアスに侵攻し、成功の暁にはアンドレアスにモレアス専制公国を与えること、それと引き換えにアンドレアスは封建領主税としてシャルル8世に毎年白鞍の馬を献上すること、差し当たってシャルル8世は教皇庁に働きかけアンドレアスへの資金援助を毎年1800ドゥカート(月150ドゥカート)まで戻すよう取り計らうこと、といった取り決めまで定められた。1495年11月1日(同年の諸聖人の日)までにシャルル8世が拒否しない限り、アンドレアスのシャルル8世への譲位は合法であるということになった。 この取引を通じてアンドレアスが得ることになるほとんどのものは金銭援助であるが、これは金目当ての無責任な称号放棄とは言えない。彼はモレアス専制公の称号だけは手元に残し、シャルル8世の遠征成功の暁には実際に故地モレアスを受け取る、という条件を加えている。すなわちアンドレアスは、かつて13年前にフェルディナンド1世を利用しようとしたのと同様に、シャルル8世を最強の駒として対オスマン帝国戦争に利用することを最大の目的としていたのである。 1494年11月6日、サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会で教皇と皇帝の公証人フィレンツェのフランチェスコ・デ・シュラツテンと、同じく公証人であり教会法・民法の学者カミーロ・ベニンベーネにより、アンドレアスの退位に関する文書が作成された。ここにはアンドレアスとペラウディ枢機卿、その他5人の聖職者が立ち会っていた。この時点でもまだシャルル8世は自身がかかわる取引を感知していなかったとみられているが、教皇アレクサンデル6世は取引をよく知っていたとみられている。アレクサンデル6世はペラルディ枢機卿と同様、イタリア半島を南下してくるフランス軍を対ナポリ戦争ではなく対オスマン帝国遠征に利用しキリスト教圏を防衛しようと考えており、アンドレアスの取引にも全面的に賛同していた。またもしこの西欧に突然新たな皇帝が出現するという事態に対し神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が抗議してきたとしても、アレクサンデル6世はアンドレアスの退位が教皇の承認を得たものではなく、ペラルディ枢機卿の独断による不適当な行動によるものだったと言い逃れることができると踏んでいた。コンスタンティノープルのオスマン宮廷も、シャルル8世のイタリア遠征を無視することはできなかった。バヤズィト2世は軍艦や大砲を新たに製造し、ギリシア中やコンスタンティノープル周辺に防衛隊を配置するといった対策をとった。 最終的にシャルル8世もアンドレアスの退位とそれに伴う取引を受け入れたが、ナポリ遠征を取りやめようとはしなかった。彼はすでに北イタリアのアスティで十字軍の宣言を行っていたが、あくまでも東方遠征はナポリ征服の後という位置づけだった。というのも、シャルル8世はナポリを支配下に収めれば十字軍計画の幅が広がると考えていたためである。教皇庁との対立やイタリア諸国を通過するのに手間取った影響でシャルル8世の進軍は遅れたものの、1495年1月27日に教皇庁からオスマン帝国の帝位請求者ジェム・スルタンの身柄を確保することに成功した。アレクサンデル6世は自分の手でシャルル8世のコンスタンティノープル皇帝戴冠を執り行おうと提案したものの、シャルル8世は実際に東方の帝国を征服してから正式に戴冠するといって断った。2月22日、シャルル8世は意気揚々とナポリに入城した。この時彼は皇帝冠を頂いていたとされているしかし3日後、対オスマン帝国遠征にあたり重要な利用価値があったジェム・スルタンが死去し、シャルル8世の遠征計画は見直しを迫られた。負け無しで進んできたシャルル8世であったが、ジェム・スルタンの死と彼に対する包囲網が結成されたことで、だんだんと十字軍計画を放棄する考えに傾いていった。 シャルル8世はバヤズィト2世からコンスタンティノープルを奪うという計画に乗り気であったが、結局何も実現できずに終わった。フランスのオスマン帝国遠征という望みは、1498年にシャルル8世が死去したことで絶たれた。これに伴いアンドレアスはもう一度種々の称号を名乗るようになったが、シャルル8世以降のフランス王たち(ルイ12世、フランソワ1世、アンリ2世、フランソワ2世)も皇帝の称号を継承したと主張し名乗り続けた。この称号は、1566年にシャルル9世がフランス王の称号を整理した際に結果的に廃止されることになった。シャルル9世自身は、ビザンツ帝国の帝号について「聞こえよく甘美であるという点で王号に勝るものではない」と書き残している。
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