ヨハネスブルク主教 1985-1986
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「ヨハネスブルク主教 1985-1986」の解説
ティモシー・バヴィンがヨハネスブルク主教を引退した後、ツツはその5人の後継者候補の1人であった。聖バルナバ大学(英語版)で選任のための会合が持たれ、ツツは2人の最も人気のある候補者であったが、白人の信徒集団は一貫してツツの対抗馬に投票した。膠着状態になった後、主教会議が最終決定のために招集され、彼らはツツを選んだ。黒人の聖公会信徒たちはこれを祝ったが、白人信徒たちはこの選択に怒りを露わにした。1985年2月、ツツは第6代ヨハネスブルク主教として、聖メアリー大聖堂の式典で叙任された。ツツはヨハネスブルク主教となった最初の黒人である 。 強制によらない限りこの政府が真に変わるという希望はない。我々はこの大地で破局(catastrophe)に直面しており、圧力をかけるという国際社会による行動だけが我々を救うことができる。我々の子供たちが死んでいっている。我々の大地は血に塗れ、燃えている。だから私は国際社会にこの政府に懲罰的制裁を加え、我々が新しい、非人種的で、民主的な、全員が参加する[訳語疑問点](participatory)、正しい南アフリカを作り上げるための支援をすることを呼びかける。これは我々を救済する非暴力的な戦略行動だ。我々の国には、それでも人種間に大きな善意が残っている。それをみすみす壊してしまうほど愚かになるまい。我々は一つの民として、一つの家族として共に生きることができる。黒人と白人が共にだ。 デズモンド・ツツ、1985年 ツツは102の教区(parhishes)、300,000人の聖公会教区民(parishioners)を含む南アフリカ最大の主教区を継承した。彼らの80パーセントは黒人であった。ツツは新任の説教で、アパルトヘイトが18か月から24か月以内に解体されはじめなければ、国際社会に南アフリカに対する経済制裁措置処置を講じるよう呼びかけることを宣言した。彼はまた、自分が白人の南アフリカ人の一部が考えているような「恐るべき鬼(horrid ogre)」などではないと主張して彼らを安心させようと努力し、主教として主教区の白人聖公会信徒の支持を得ることに多くの時間を費やした。主教となったので、彼はUDFの後援をやめた。。 1980年代半ば、激高する黒人の若者と治安部隊との間の衝突が数を増しており、この結果死者も増加した。ツツは数千人の参列者が集まる彼らの葬式の数多くに招待された。ドゥドゥザ(英語版)の葬儀で、彼は集まった群衆の一部が、政府のスパイであると疑われた人を殺害するのを防ぐために歩み出た。彼は政府への協力の疑いがある人物に対する拷問や殺人に公然と反対し、黒人社会の一部の人々の怒りを買った。こうした若い過激派にとって、ツツとその非暴力の求めは、革命への道の障害であると感じとられていた。1人の若い女性は、ツツが「私たちの大部分にとってあまりにも穏健すぎるが、体制にとっては過激すぎる。」と証言している。暴力の中で、ANCは黒人系南アフリカ人に、国を「統治不能」にするよう呼びかけ、外国企業がますます資本を引き揚げ、南アフリカの通貨ランドの価値は最低を更新した。1985年、ボータは緊急処置を実施した。ツツはこれを批判し、政府と指導的な黒人組織の間の仲介を申し出たが、ボータはこれをはねつけた 。 1985年、彼はアメリカへの遊説の旅を開始し、1985年10月には国連総会の政治委員会で演説を行って、国際社会へアパルトヘイトが6か月以内に解体しないならば、南アフリカに制裁を課すように促した。彼はイギリスに行き、マーガレット・サッチャー首相と面会した。彼はまた、亡命中の南アフリカ人学生を資金的に支援するためのツツ主教奨学基金(a Bishop Tutu Scholarship Fund)の形成を発表した。彼は1986年にはアメリカへ戻り、1986年8月に日本、中国、ジャマイカを訪問し、制裁を促した。大部分の反アパルトヘイト活動指導者たちが投獄されていたことから、ネルソン・マンデラはツツは「時の権力者にとって第一の公敵たる存在」と評している。
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