ヨハネスブルグで世界王座奪取
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「ジミー・カラザース」の記事における「ヨハネスブルグで世界王座奪取」の解説
マネージャーのマギルはタウィールへの挑戦を交渉していたが、契約成立までに1年を要した。カラザースのファイトマネーは少なく、契約書にはカラザースが勝った場合には南アフリカで再戦するという条項が盛り込まれた。カラザースはマギルとマコーネルと妻のマイラとともに南アフリカに渡った。 『シドニー・モーニング・ヘラルド』掲載写真 『ザ・ウエスト・オーストラリアン』掲載写真 『シドニー・モーニング・ヘラルド』1面 『ザ・ウエスト・オーストラリアン』1面 1952年11月17日付1面でオーストラリア初の世界王者誕生を伝える『シドニー・モーニング・ヘラルド』と『ザ・ウエスト・オーストラリアン』 1952年11月15日、プロ15戦目で、ヨハネスブルグのランドスタジアムにてビック・タウィールの持つ世界王座に挑戦。この試合は、世界戦史上初となる無敗選手同士の対戦だった。観衆28,000人。南アフリカのボクシングの試合では最多記録となった。タウィールは1950年5月にマヌエル・オルティスを倒して南アフリカ初の「普遍的に認められた」(NBA設立以降、王座認定団体が認定した)世界王者となり、この王座を3度防衛。それまでの27戦でダウン経験もなかった。 カラザースは試合開始から数秒のうちに重い左フックを王者の顎に痛打。タウィールは目をカットして流血、顔を赤く腫らして、当時3本だった(リング禍#団体システムへの影響参照)ロープの間からリング下へ転落。よろめきながらカウント9でリングに戻ったが、すぐに連打にさらされた。カラザースが147発のパンチを打つ一方、タウィールは1発も当てられず、ロープの間から合計2度転落した後、カウントアウトされ、助けられながらコーナーに戻った。カラザースは初回2分19秒KO勝利を収め、世界バンタム級王座を獲得した。オーストラリア人が世界王座を保持するのは1890年のヤング・グリフォ以来で、「普遍的に認められた」世界王者としてはオーストラリア初であった。また同時に大英帝国(ブリティッシュ・エンパイア)バンタム級王座も手に入れた。決着がつくと数秒は会場が静まり返り、それから何百人もの観衆がリングに突進して両者に群がったが、警察に駆逐された。 カラザースは事前にタウィールの試合動画を全てチェックし、ルイス・ロメロのような強打の選手からはパンチをもらっていることを確認していた。マコーネルはタウィールはスロースターターだと言い、「最初の1、2ラウンドで仕留めに行け」と指示。カラザースは、この戦術が勝利に繋がったと語った。またカラザースは、トランスバール・ナショナル・スポーティング・クラブ(タウィールをプロモートする会社)にはよくしてもらったと話し、すぐにオーストラリアに戻るが、また南アフリカに戻ってタウィールと再戦すると言明した。この試合のレフェリーを務めた1924年パリ五輪バンタム級金メダリストのウィリー・スミスは、タウィールは減量で自滅したのだと話した。タウィールは減量が厳しかったと報じられていたが、タウィールの兄弟でマッチメイカー・プロモーターのモーリスは試合後にこれを否定している。また、試合は1度、タウィールの複視のために延期されたが、モーリスが知る限りではその症状ももうなくなったとのことだった。しかしタウィールは入場時に顔色が悪く、その顔は引きつっており、試合後は控え室のテーブルに横たわって手当を受けながら「最初のパンチをもらってからは何も覚えていない」と話した。 カラザースが世界王者となって数分のうちに、スペインのルイス・ロメロ(前年にタウィールに挑戦して敗北)のプロモーターは、マドリードでロメロを相手に防衛戦をするなら6,250豪ポンド(5,000スターリング・ポンド)と別途費用を払うと公言している。
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