メスメル以後の催眠研究の歴史とは? わかりやすく解説

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メスメル以後の催眠研究の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:53 UTC 版)

催眠」の記事における「メスメル以後の催眠研究の歴史」の解説

イギリス医師ジェイムズ・ブレイドJames Braid, 1795-1860)は、メスメル以後治療技法言葉パスという身振り接触)と道具立てバケツ奇抜な衣装、暗い部屋音楽熱狂)、治癒対象麻痺失神を伴うヒステリー)に分類した。彼は凝視法により、被験者催眠誘導した。これは被験者一点を見つめるように指示をすることで、術者の声へ集中させ、術者暗示受け入れやすくする方法である。つまり、動物磁気使わず催眠状態生じることを実証したのであるまた、視覚障碍者にも凝視法の暗示用いて催眠誘導し、これにより催眠心理現象であることを示した 彼は、暗示により神経系眠り引き起こす考え1843年催眠ヒプノシスまたはピプノチズム)と名付けた精神医学者ジャン=マルタン・シャルコー(J. M. Charcot, 1825-1893, フランス)は、ブレイド研究読んで催眠関心持った19世紀後半は、ヒステリー(英:hysteria)が医学的に最大関心事であったためである。ヒステリーは、ラテン語のヒュステラ(husterā、子宮)から派生した言葉で、当時女性だけがなるものと思われており、失神麻痺痙攣拒食など重い症状を示すものだったシャルコーは、1861年からパリにあるサルペトリエール病院院長務めた。彼は患者を見つめることでヒステリー生じさせ、それを消した症状発生消滅という医学的成果成し遂げたのであるシャルコー病院講堂実演公開したが、発表会には流行病治療法を見るために、医者だけでなく、貴族新聞記者小説家たちも駆けつけた。研究発表なので、シャルコーシルクハット燕尾服という正装をして現れた。会場に連れてこられた患者シャルコーが見つめると、患者ヒステリー起こしたここからシャルコーは、ヒステリー暗示によって引き起こされるではなく人間生理学的構造そのもの由来する考えたサルペトリエール病院女性精神障害政治犯犯罪者売春婦収容する病院で、患者数4000人に医師10人で、治癒率は10%以下だった。病院という名の収容所であった現在の視点から言えば患者は突然、みすぼらしい姿のまま病院講堂に連れてこられて、立派な服装をした大勢の人の前に立たされ、会ったともない病院長に見つめられのである患者パニック起こした考えられる彼の姿やしぐさは、後に吸血鬼ドラキュラや「邪眼evil eye)」による隷属テーマにした小説影響与えたアンブロワーズ=オーギュスト・リエボーAmbroise-Auguste Liébeault, 1823-1904)は、フランスナンシー地方開業医であった。彼は、男性女性も、若者高齢者も、農民にも貴族にもヒステリーなどの催眠治療を行わなければならず、数千人を治療した。そこから催眠言語暗示だけでかかり催眠中の動作記憶再生は、すべて患者本人が行っていることを示した催眠ヒステリー以外の心の病にも有効であることを示したナンシー学派と言われている。現代催眠研究基本的立場である。 1880年ごろ、ウイーン医師ヨーゼフ・ブロイアーJosef Breuer,1842-1925、オーストリア)は、催眠症状消滅だけでなく、年齢退行によって症状原因を探ることができること示した精神分析ジークムント・フロイト(Sigmund. Freud, 1856-1939、オーストリア)は、シャルコーのもとで催眠学びナンシー催眠による一般人向け治療技法学んだその後ブロイアー症状原因を探る共同研究をした。彼は、後催眠暗示見て無意識という概念編み出した年齢退行からは、退行という概念作ったまた、原因となる記憶思い出せば症状がなくなる現象カタルシス浄化)と名付けた。さらに、催眠状態誘導して症状原因思い出すことが難しい例があることから抑圧という概念生み出したそのような患者に対しては、ナンシー学派のベルネイム, H.参考にして、覚醒状態患者心に浮かんだことを自由に述べさせた。これを自由連想法名づけた。その後催眠用いて記憶解放する方法止め覚醒状態分析をする精神分析打ち立てた第1次第2次世界大戦は、無感動衝動的攻撃行動麻痺健忘など戦争神経症(war neurosis)の兵士大量に生み出した催眠療法兵士症状除去記憶回復使われ短期的に症状除去できたと言われている。これが第二次世界大戦後催眠研究隆盛影響与えることになった。この時期ベルリン大学ヨハネス・ハインリヒ・シュルツ(J.H. Schultz)は、自己暗示組織化した自律訓練法提唱した(1932)。リラクゼーション法として現在でも使われている。森田正馬(もりた・まさたか, 1874〜1938)も当初催眠暗示療法試みたが、その効果疑問抱き神経症不安障害対象とする森田療法創始した1919年)。

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