ムアーウィヤによるヤズィードの指名とは? わかりやすく解説

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ムアーウィヤによるヤズィードの指名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:05 UTC 版)

ヤズィード1世」の記事における「ムアーウィヤによるヤズィードの指名」の解説

ハサンムアーウィヤの間で結ばれた和約一時的な平和をもたらしたものの、カリフ地位の継承に関する枠組み確立されたわけではなかった。過去場合同様に地位の継承問題将来禍根となる可能性残っていた。東洋学者バーナード・ルイスは、「イスラーム歴史からムアーウィヤ利用できた先例合議内戦だけであった前者はうまく行きそうにもなく、後者には明白な問題があった。」と指摘している。このような理由から、ムアーウィヤ自分息子であるヤズィード後継者として指名することで生前問題解決しようとした。しかし、世襲による継承それまでイスラーム歴史において前例がなく、イスラーム教徒にとってこのような考え恥ずべきものであった初期のカリフたちはマディーナでの民衆の支持、あるいはムハンマド古くからの教友(サハーバ)による合議によって選出されていた。また、イスラーム原則によればカリフ地位支配者私有ではなく子孫与えられるものではなかった。さらに、支配者地位は父から息子引き継がれるべきものではなく、より広い部族人物の中から選ばれるべきであるとするアラブ慣習によっても受け入れ難いものであったムアーウィヤクライシュ族妻の子である長男アブドゥッラー後継者候補から外した。これは恐らく、カルブ族の妻の生まれであるヤズィード対すシリアでの強力な支持よるものであった。カルブ族はシリア南部支配的な部族であり、より大きな部族連合であるクダーア族(英語版)を率いていた。クダーア族はイスラーム成立する遥か以前シリア勢力築きアラビアイラクのより自由闊達気質部族とは対照的にビザンツ帝国の下でかなりの軍事経験を積むとともに階層的秩序にも精通していた。一方シリア北部ムアーウィヤ治世中にその地へ移住してきた部族連合カイス族(英語版)よって支配されていたが、カイス族はウマイヤ朝宮廷におけるカルブ族の特権的な地位に不満を抱いていた。 ムアーウィヤビザンツ帝国対す軍事行動指揮官ヤズィード任命することによって、シリア北部部族からヤズィードへの支持増やそうとしていたとみられている。しかし、カイス族はヤズィードが「カルブ族の女性息子」であることを理由に、少なくとも当初後継者へ指名反対したためこの方針は限られた成果しかもたらさなかった。ヒジャーズマディーナメッカ存在し古くからのイスラーム教徒支配層居住していたアラビア半島西部地域)ではヤズィードウマイヤ家親族から支持得ていたが、同様にヒジャーズ居住する他の有力者層から指名承認取り付けることも重要な要素占めていた。ムアーウィヤメッカ巡礼引率者としてヤズィード任命することでヤズィード継承への支持獲得しイスラーム教徒指導者としての立場固めさせようと望んでいた可能性がある。10世紀学者であるイスファハーニー(967年没)によればムアーウィヤヤズィード継承支持する世論形成するために複数詩人雇っていた。 歴史家イブン・アル=アスィール1233年没)の記録によればムアーウィヤ676年首都ダマスクスすべての地方有力者参加するシューラー(英語版)(諮問ための会議の場)を召集し媚び賄賂さらには脅迫といった手段用いてヤズィード継承対す参加者支持取り付けた。そしてウマイヤ家親族当時マディーナ総督であったマルワーン・ブン・アル=ハカムにこの決定マディーナ人々周知させるように命じた。しかしマルワーンは、とりわけその徳のある血筋から同様にカリフ地位主張することが可能であったフサイン・ブン・アリー(アリー・ブン・アビー・ターリブ息子ムハンマドの孫)、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルムハンマドの教友のアッ=ズバイル・ブン・アル=アウワームの息子初代正統カリフアブー・バクルの孫)、アブドゥッラー・ブン・ウマル(英語版)(第2代正統カリフウマル息子)、さらにはアブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル(英語版)(アブー・バクル長男)といったムハンマドの教友の息子たちによる反対に直面したムアーウィヤマディーナ向かい、これらの4人の反対者たちに対して同意するように圧力をかけたものの、4人全員メッカ逃れた。さらに逃亡者何人かを追って殺害脅しをかけたが効果はなかった。それにもかかわらずムアーウィヤは4人が忠誠誓ったことをメッカ人々信じさせることに成功しメッカ住民からヤズィード対す忠誠受けた同様にダマスクスへ戻る途中でマディーナ住民からも忠誠確保したこのようにムアーウィヤヤズィードへの指名対す全般的な承認取り付けたことで、反対者たちは沈黙余儀なくされた。 東洋学者ユリウス・ヴェルハウゼンは、著名なマディーナ住民による指名拒否に関するこの記録ムアーウィヤ死後起きた出来事後述)の逆反映であるとして、上述の話の信憑性疑問呈している。同様の見解歴史家のアンドルー・マーシャムからも示されている。歴史家タバリー923年没)の記述によればムアーウィヤ676年指名公表し地方代表団679年もしくは680年イラク駐屯地であるバスラから迎え入れたのみであり、この代表団ヤズィード対す忠誠誓ったとしている。一方歴史家ヤアクービー898年没)によればムアーウィヤメッカへの巡礼の際にヤズィードへの忠誠要求した。これに対して上記の4人の著名なイスラーム教徒除きすべての人々要求従ったまた、反対した4人に対してムアーウィヤ実力行使に出ることはなかった。いずれにせよムアーウィヤ自分の死の前にヤズィード継承対す全般的な承認確保することに成功した

※この「ムアーウィヤによるヤズィードの指名」の解説は、「ヤズィード1世」の解説の一部です。
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