ムアーウィヤによるヤズィードの指名
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「ヤズィード1世」の記事における「ムアーウィヤによるヤズィードの指名」の解説
ハサンとムアーウィヤの間で結ばれた和約は一時的な平和をもたらしたものの、カリフの地位の継承に関する枠組みが確立されたわけではなかった。過去の場合と同様に、地位の継承の問題は将来の禍根となる可能性が残っていた。東洋学者のバーナード・ルイスは、「イスラームの歴史からムアーウィヤが利用できた先例は合議と内戦だけであった。前者はうまく行きそうにもなく、後者には明白な問題があった。」と指摘している。このような理由から、ムアーウィヤは自分の息子であるヤズィードを後継者として指名することで生前に問題を解決しようとした。しかし、世襲による継承はそれまでのイスラームの歴史において前例がなく、イスラーム教徒にとってこのような考えは恥ずべきものであった。初期のカリフたちはマディーナでの民衆の支持、あるいはムハンマドの古くからの教友(サハーバ)による合議によって選出されていた。また、イスラームの原則によれば、カリフの地位は支配者の私有物ではなく、子孫に与えられるものではなかった。さらに、支配者の地位は父から息子へ引き継がれるべきものではなく、より広い部族の人物の中から選ばれるべきであるとするアラブの慣習によっても受け入れ難いものであった。 ムアーウィヤはクライシュ族の妻の子である長男のアブドゥッラーを後継者の候補から外した。これは恐らく、カルブ族の妻の生まれであるヤズィードに対するシリアでの強力な支持によるものであった。カルブ族はシリア南部で支配的な部族であり、より大きな部族連合であるクダーア族(英語版)を率いていた。クダーア族はイスラームが成立する遥か以前にシリアで勢力を築き、アラビアとイラクのより自由闊達な気質の部族とは対照的に、ビザンツ帝国の下でかなりの軍事経験を積むとともに階層的秩序にも精通していた。一方、シリア北部はムアーウィヤの治世中にその地へ移住してきた部族連合のカイス族(英語版)よって支配されていたが、カイス族はウマイヤ朝の宮廷におけるカルブ族の特権的な地位に不満を抱いていた。 ムアーウィヤはビザンツ帝国に対する軍事行動の指揮官にヤズィードを任命することによって、シリア北部の部族からヤズィードへの支持を増やそうとしていたとみられている。しかし、カイス族はヤズィードが「カルブ族の女性の息子」であることを理由に、少なくとも当初は後継者への指名に反対したため、この方針は限られた成果しかもたらさなかった。ヒジャーズ(マディーナとメッカが存在し、古くからのイスラーム教徒の支配層が居住していたアラビア半島西部の地域)ではヤズィードはウマイヤ家の親族から支持を得ていたが、同様にヒジャーズに居住する他の有力者層から指名の承認を取り付けることも重要な要素を占めていた。ムアーウィヤはメッカ巡礼の引率者としてヤズィードを任命することでヤズィードの継承への支持を獲得し、イスラーム教徒の指導者としての立場を固めさせようと望んでいた可能性がある。10世紀の学者であるイスファハーニー(967年没)によれば、ムアーウィヤはヤズィードの継承を支持する世論を形成するために複数の詩人を雇っていた。 歴史家のイブン・アル=アスィール(1233年没)の記録によれば、ムアーウィヤは676年に首都のダマスクスですべての地方の有力者が参加するシューラー(英語版)(諮問のための会議の場)を召集し、媚びと賄賂、さらには脅迫といった手段を用いてヤズィードの継承に対する参加者の支持を取り付けた。そしてウマイヤ家の親族で当時マディーナの総督であったマルワーン・ブン・アル=ハカムにこの決定をマディーナの人々へ周知させるように命じた。しかしマルワーンは、とりわけその徳のある血筋から同様にカリフの地位を主張することが可能であったフサイン・ブン・アリー(アリー・ブン・アビー・ターリブの息子でムハンマドの孫)、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(ムハンマドの教友のアッ=ズバイル・ブン・アル=アウワームの息子で初代正統カリフのアブー・バクルの孫)、アブドゥッラー・ブン・ウマル(英語版)(第2代正統カリフのウマルの息子)、さらにはアブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル(英語版)(アブー・バクルの長男)といったムハンマドの教友の息子たちによる反対に直面した。ムアーウィヤはマディーナへ向かい、これらの4人の反対者たちに対して同意するように圧力をかけたものの、4人全員がメッカへ逃れた。さらに逃亡者の何人かを追って殺害の脅しをかけたが効果はなかった。それにもかかわらず、ムアーウィヤは4人が忠誠を誓ったことをメッカの人々へ信じさせることに成功し、メッカの住民からヤズィードに対する忠誠を受けた。同様にダマスクスへ戻る途中でマディーナの住民からも忠誠を確保した。このようにムアーウィヤがヤズィードへの指名に対する全般的な承認を取り付けたことで、反対者たちは沈黙を余儀なくされた。 東洋学者のユリウス・ヴェルハウゼンは、著名なマディーナの住民による指名の拒否に関するこの記録はムアーウィヤの死後に起きた出来事(後述)の逆反映であるとして、上述の話の信憑性に疑問を呈している。同様の見解は歴史家のアンドルー・マーシャムからも示されている。歴史家のタバリー(923年没)の記述によれば、ムアーウィヤは676年に指名を公表し、地方の代表団は679年もしくは680年にイラクの駐屯地であるバスラから迎え入れたのみであり、この代表団がヤズィードに対する忠誠を誓ったとしている。一方、歴史家のヤアクービー(898年没)によれば、ムアーウィヤはメッカへの巡礼の際にヤズィードへの忠誠を要求した。これに対して上記の4人の著名なイスラーム教徒を除き、すべての人々が要求に従った。また、反対した4人に対してムアーウィヤが実力行使に出ることはなかった。いずれにせよ、ムアーウィヤは自分の死の前にヤズィードの継承に対する全般的な承認を確保することに成功した。
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