ムアーウィヤによる創始
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「ウマイヤ朝」の記事における「ムアーウィヤによる創始」の解説
656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。 ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。
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