ムアーウィヤによる創始とは? わかりやすく解説

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ムアーウィヤによる創始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 19:32 UTC 版)

ウマイヤ朝」の記事における「ムアーウィヤによる創始」の解説

656年ムアーウィヤと同じウマイヤ家長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラーム理念政治反映させることなどを求めた若者一団によってマディーナ私邸殺害された。ウスマーン死去を受け、マディーナ古参ムスリムらに推されアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクバスラ拠点としてアリー反旗を翻し第一次内乱起こった両者抗争656年12月ラクダの戦いにおいて頂点達しアリー勝利を収めたその後クーファに居を定めたアリームアーウィヤに対して忠誠の誓い求め書簡送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害責任者引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーシリア攻め入ったムアーウィヤシリア駐屯軍率い657年スィッフィーンの戦いアリー率いイラク軍戦った。しかし戦闘決着はつかず、和平調停が行われることとなったこのなかで和平調停批判するアリー陣営一部戦線離脱しイスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった和平調停もまた決着つかないまま長引いていたが、660年ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言したムアーウィヤアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落としたアリー後継として推されアリー長男であるハサンムアーウィヤとの交渉のすえ多額年金引き換えカリフ継承辞退しマディーナ隠棲した。ムアーウィヤダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱終結するとともにダマスクスを都とするウマイヤ朝成立した第一次内乱終結したことにともなってムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動展開していった。ムアーウィヤビザンツ帝国との戦い全力尽くし674年から6年コンスタンティノープル海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸征服した。しかし、彼は軍事外交よりも内政意を用い正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁秘密警察親衛隊などを設立したウマイヤ朝重要な制度はほとんど彼によってその基礎築かれた。 ムアーウィヤ後継者としてはアリー次男であるフサインウマルの子などが推されていたが、体制存続望んでいたシリアアラブムアーウィヤ息子であるヤズィード後継者として推したムアーウィヤ他の地方アラブたちを説得買収脅迫してヤズィード次期カリフとして認めさせた。

※この「ムアーウィヤによる創始」の解説は、「ウマイヤ朝」の解説の一部です。
「ムアーウィヤによる創始」を含む「ウマイヤ朝」の記事については、「ウマイヤ朝」の概要を参照ください。

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