ムィティシ機械製造工場時代
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「メトロワゴンマッシュ」の記事における「ムィティシ機械製造工場時代」の解説
メトロワゴンマッシュの基礎となったのは、名誉市民のサヴァ・イワノビッチ・マモントフ(Савва Иванович Мамонтов)、貴族のコンスタンチン・アーティブシェフ(Константин Арцыбушев)、モスクワの第1商業組合の商人であるアメリカ国籍を持つA.V.バリー(A. V. Barry)が1895年にロシア財務省に提出し、翌1896年に認可された輸送機器製造に関する合弁会社設立プロジェクトである。1897年にモスクワ近郊のムィティシに工場が完成し、最初の製品としてロシアの北部鉄道向けの客車が作られた。 当初は主に鉄道車両や予備の機器の生産を手掛け、モスクワ市電用の路面電車や除雪車の製造を開始した1903年の時点でムィティシ機械製造工場はロシア第二の規模を持つ鉄道車両工場となっていた。更に第一次世界大戦勃発以前に軍用装備の輸送用車両をはじめとする軍用機器の製造も開始しており、工場の発展はムィティシの経済にも大きな影響を与えた。 ロシア革命による混乱に伴う需要減少を受け、1920年には当時モスクワ最大の企業であったストライク・グループの子会社となる事で各地の工場の建物や輸送機器の修理を受け持った。その後1924年にソ連技術管理局(英語版)設立により工場の生産量は回復・成長し、以降は輸送機器生産工場としての側面が強くなった。1926年にはソ連初の郊外電車(エレクトリーチカ)となったバクー・サブンチュ・スラハニ電化鉄道(ロシア語版)向けの電車の生産を行い、1929年には編成を組む事を前提とした郊外電車の生産も開始した。 1932年以降、ムィティシ機械製造工場は路面電車および車体長19m級の鉄道車両の生産に特化する事となり、1935年にはモスクワ地下鉄開通に備えソ連初の地下鉄車両にして初の全金属製車体を有する鉄道車両となったA形電車(ロシア語版)を製造した。 第二次世界大戦(大祖国戦争)中は政府からの要請を受けて対空砲や砲弾、機関銃などの軍事機器の生産を24時間体制で行っていたが、空襲が激化した事を受けて1941年10月17日から終戦まで生産施設をウラルへ避難させた上で生産を続行する事となった。資材も人員も不足する中でも24時間体制での生産を続行した功績から、戦後ムィティシ機械製造工場へ祖国戦争勲章が授与された。 終戦後は深刻な日用品不足に対応するため机や子供用そり、ハンマーなどの生産を行っていたが、1946年から地下鉄電車の生産が再開され、同時にダンプトラックを始めとしたトラック用ボディの製造が開始された。また防衛省からの命令を受けて軍用車両の生産も続行された事により、以降ムィティシ機械製造工場は長期に渡って地下鉄電車、トラックボディ、軍用車両という3種類の製品を手掛ける企業となった。工場で作られた製品はソ連国内への大量導入に留まらず、中国、モンゴル、韓国、ユーゴスラビア、トルコ、イランなど世界各国へ輸出された。 1987年には自動車生産工場を増設した一方、1980年代後半以降のペレストロイカを始めとするソ連国内の変革はムィティシ機械製造工場へも影響を与え、工場内に協同組合が設立されるようになった。そして1992年4月20日、労働組合会議によりムィティシ機械製造工場は株式会社であるメトロワゴンマッシュとして再編される事となった。
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