ポーツマス条約と桂・ハリマン協定
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「南満洲鉄道」の記事における「ポーツマス条約と桂・ハリマン協定」の解説
「ポーツマス条約」および「桂・ハリマン協定」も参照 日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された。講和会議で小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった。会議において日本側は当初、南満洲支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた。 伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した。ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版)駐日アメリカ合衆国公使の招きによってジェイコブ・シフなどとともに来日した。 ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、彼の売り込みの手腕もさることながら、「満洲鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一つであった。桂はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。 ポーツマス会議より帰国した小村は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったとして、その撤回を説得して歩いた。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、協定は不適切だと主張した。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した。小村の報告によって、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会(英語版)から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマンらの船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた。
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「ポーツマス条約」および「桂・ハリマン協定」も参照 日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された。講和会議で小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった。会議において日本側は当初、南満州支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた。 伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した。ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版)駐日アメリカ合衆国公使の招きによってジェイコブ・シフなどとともに来日した。 ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、彼の売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一つであった。桂はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。 ポーツマス会議より帰国した小村は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったとして、その撤回を説得して歩いた。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、協定は不適切だと主張した。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した。小村の報告によって、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会(英語版)から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマンらの船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた。
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