ベザントとレッドビーターによる原子の霊視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/20 14:03 UTC 版)
「霊視」の記事における「ベザントとレッドビーターによる原子の霊視」の解説
ベザントとレッドビーターの原子の霊視については、向山毅が論文において紹介している。レッドビーター(1847-1934)というのは英国国教会の牧師補であったが、1885年にブラヴァツキー夫人と出会い神智学協会の会員となった人物で、霊視の達人だったと言われているのだという1895年夏のことだが、ベザントとレッドビーターは神智学的な方法を用いて、当時の物理学では扱えなかった自然現象に挑もうとしたという。彼らは東洋のグルによって訓練された透視術の達人だったといい、霊視(en:astral vision アストラル・ビジョン)の手法を用いて、原子の大きく拡大した像を得ようとしたという。彼らのやり方では霊視(アストラルビジョン)を行う時特にトランス状態になる必要はなく、覚醒した状態で観察したものを紙に描くことが可能であったといい、作業は彼らが「見た」“原子”の様子を口述し、それを他の男が図に描く、という分担で行われたという。最初は水素、酸素、窒素を見て、また原子量が3である「第4の気体」についても原子の内部を霊視したという。その結果、原子というのは、さらに小さな構成要素からできており、その要素の数は水素で18、窒素で261、酸素で290あると見えたという。第4の気体には54ケの要素が見えた。そして彼らはこの要素(構成要素)のことを「ultimate physical atom(究極物理的原子)」と呼んだ。そして後にはサンスクリット語で「続く」という意味の「ANU(アヌ)」という言葉でそれを呼ぶようになったという。水素中のアヌ数18を単位とすると、彼らが示した窒素と酸素のアヌの数は、化学の教科書に示されている原子量とほぼ等しくなっている、と向山は指摘している。また2人は水素原子中には6ケの卵形をした物体がある、と霊視し、回転や振動をしている、と見たという。これら6個の物体の中にはそれぞれ3個ずつ“アヌ”が入っている、と見た。この霊視の結果は神智学の雑誌Lucifer(「ルシファー」)の1895年11月号に発表された。そこには原子の形状図やその中のアヌの配置図を添えられている。そして1908年にはふたりは著書『オカルト化学』を出版した。これはそれまでの彼らの研究成果をまとめあげたものであり、新たに59種類の元素が追加されていたという。(新たな元素の試料の中にはウィリアム・クルックスに依頼して得られたものもあったという。)この書『オカルト化学』は、1919年に第二版、1946年にその復刻版、1951年に第三版が出版され、版を重ねるごとに掲載する原子・分子の数が増加した。この本には様々な元素の原子構造や分子構造の奇怪な図を掲載しており、それらの原子量や化学的性質についての記述を掲載している。第二版とその復刻版以降にはアヌ数で分類した元素の周期表も含まれている。また、この本には、通常の科学では「まだ発見されていない」と2人が記述した元素が掲載されており、つまり新しい元素を発見した、と述べているのである。上で述べた第4の気体に相当する原子量3の気体がそれで、「Occultum(オカルタム)」と名付けられていた。彼らの原子量についての表には、希ガスの近くにそれに関連した新元素「メタネオン(Meta-Neon)」、「プロトアルゴン(Proto-Argon)]、「メタアルゴン(Meta-Argon)」なども記載されている。また希土類元素の近くにまったく新しい希ガスである「カロン(Kalon)」および「メタカロン(Meta-Kalon)」も発見しているという。彼らの書にある「Masurium, Ma(マスリウム)」は、現代の科学で言う「テクネチウム」(Tc,1932年に発見されたもの)に相当するであろう、と向山は指摘し、「I1linium, Il(イリニウム)」は現在の科学の「プロメチウム(Pm,1945年に発見されたもの」に相当するだろう、と向山は指摘している。このベザントとレッドビーターの『オカルト化学』は当時それなりの影響力を持っていたようで、この書に関して次のようなエピソードが伝わっている。フランシス・ウィリアム・アストン(Francis William Aston、1877-1945)は、1919年に質量分析法を発明し、多数の元素の同位体を発見し、その成果により1922年にノーベル化学賞を受賞した人物であるが、1912年にネオンには二種類の原子量の異なった同位体があることを発見した時、原子量が20である通常のネオンに対して、原子量が22であるネオンの同位体のことを、アストンはベザントとレッドビーターの『オカルト化学』を引用しつつ「メタネオン」と呼んだという。(なお『オカルト化学』によると「メタネオン」の原子量は22.33とされている)。ただし、アストンのノーベル賞授賞式での講演原稿やその後に書いた教科書などでは「メタネオン」という用語は使われなくなっていたという。その後の『オカルト化学』の評価について言えば、1911年にラザフォードが原子核の存在を確認し、1912年ニールス・ボーアが、正の電荷を有する原子核の周りを負電荷をもった小さな電子が回転している、とするボーアモデルを提唱した。これはベザントとレッドビーターが霊視によって描いた図とはまったく異なっていたうえに、1925年の量子力学の誕生によって原子内の電子の位置は古典的な点や線では表せない、とされるようになり、ベザントとレッドビーターが霊視して描かせたと述べた原子の図面は、やがて忘れら去られてしまったという。しかし1980年代以降になり、素粒子物理学が進歩して以降、ベザントとレッドビーターの図はクォークやサブクォークレベルで見た原子核の構造とよく似ている、との指摘もあるようだという。
※この「ベザントとレッドビーターによる原子の霊視」の解説は、「霊視」の解説の一部です。
「ベザントとレッドビーターによる原子の霊視」を含む「霊視」の記事については、「霊視」の概要を参照ください。
- ベザントとレッドビーターによる原子の霊視のページへのリンク