パーク軍団によるピーターズバーグ東の攻撃
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「第三次ピーターズバーグの戦い」の記事における「パーク軍団によるピーターズバーグ東の攻撃」の解説
ジョン・G・パーク少将指揮下北軍の第9軍団が1864年に捕獲していたピーターズバーグ東の塹壕を占めていた。パーク軍が面していたのはジェルサレム板張り道路に沿った南軍の強力な陣地であり、マホーン砦(第29砲台を強化し、ウィリアム・マホーン少将にちなんで名付けられた。「ダムネイション砦」天罰の砦とも呼ばれた)が支配し、6つの堡塁のある砲台で支援され、ジョン・B・ゴードン少将の部隊が入っていた。砦は屋根のある道で南軍主前線に繋がれていた。南軍は主前線の背後約0.25マイル (400 m) に第2の強力な前線を構築していた。北軍のセジウィック砦がマホーン砦から約500ヤード (460 m) の位置にあった。 その期間にあった戦闘の多くがピーターズバーグの西で起こっており、特にファイブフォークスの戦いがそうだったので、南軍のピーターズバーグの東の強さがかなり弱められた。ゴードンは前線の6マイル (9.7 km) 以上の範囲に、僅か5,500名しか当てられなかったと言っていた。ブライン・グリムズ少将の師団2,200名が、クレーターの戦いが起きた場所と第45砲台の間の前線3.5マイル (5.6 km) を保持していた。これにはマホーン砦の防衛も含まれていた。守備隊の配置は薄かったが第25砲台と第30砲台の間の陣地、特にパーク軍団が攻撃したマホーン砦(第29砲台)は、最初に建設されて以来かなり強化されていた。 1865年4月1日の夜午後11時頃、パークはロバート・B・ポッター准将(名誉少将)師団サイモン・G・グリフィン准将の旅団の部隊を、グリムズの哨戒線を奪うために、セジウィック砦(「地獄砦」とも呼ばれた)近くの地点から前線に送った。彼らはその過程でエドウィン・L・ホブソン大佐旅団の約半数である士官兵卒合わせて249名を捕虜にした。パークはこれら工作物に対して強襲を掛けることについて依然として心配していたので、急襲の要素が失われたために攻勢を中止することを重点的に求めていた。4月1日午後10時に始めていた砲撃と哨戒線に対する攻撃、またその後の小競り合いが、守備兵に警告を与えていた。 パークは攻撃中止を要請したことに良い返事を貰えなかったときに、18個連隊を前線に送る準備をした。ロバート・B・ポッター准将の師団はジェルサレム板張り道路の西に配された。ジョン・F・ハートランフト准将(名誉少将)の師団は、セジウィック砦の右手、東に配された。オーランド・B・ウィルコックス准将(名誉少将)は、その師団から3個連隊をハートランフトの右側面援護に送り、残りの連隊は予備隊としたが、クレーターとアポマトックス川の間で陽動行動を行うこととした。ポッターとハートランフトはどちらもその部隊の前に工兵を送り、障害物を除去させた。 パークの攻撃隊は4月2日午前4時ごろに霧の中を前進した。工兵が拒馬を壊して穴を明けた後で、メイン第31歩兵連隊のトマス・P・ビールズが3個中隊と共に第28砲台にポッター師団の攻撃を先導した。砲台の前の壕は水で満たされていたので、北軍兵の何人かがそこに落ちた後で、他の者は砲台の西側に回り、その小さな守備隊を捕獲した。南軍の第二次前線からの砲撃を受けながら、北軍兵は主前線に沿ってマホーン砦に移動した。ハートランフトの師団も同じような過程を経て第27砲台を取ることに成功した。ウィルコックス師団ハリマンの第3連隊は第25砲台を占領して大砲5門を取り、68名の兵士を捕虜にした。 北軍攻撃隊はミラーの突出部を占領したが、その後は塹壕に沿って横向きから横向きに戦う必要があった。ハートランフトとハリマンの部隊が前線に達した時に、南軍コーネリアス・ロビンソン・ジュニアがアラバマ第3歩兵連隊を率いて右手にいた。これは南軍の第2列の大砲から北軍攻撃兵を縦射できるように陣取ったものだった。ロビンソンの隊は北軍兵がその東側に柵の後から現れるのを待って狙撃し、その後弾薬が尽きた時点で退却した。 南軍フィリップ・クック准将のジョージア旅団の中でエドウィン・A・ナッシュ大佐の部隊が、ジェルサレム板張り道路東の陣地を保持していたが、ポッター隊がマホーン砦を攻撃することでそれをジェルサレム板張り道路に西にまで広げた。砦はやや高い尾根の上に造られており、障害物と砂袋で埋められていた。北軍ジョン・I・カーティン大佐(名誉准将)の旅団が、後方、壕を越えて、また胸壁を越えて砦に強襲し、大砲3門を捕獲し、兵士数人を捕虜にした。砦に入った北軍4個連隊は、南軍第2列からの砲撃を受けたために、南軍工作物の上でさらに西まで占領範囲を広げることができなかった。この時までにポッターが重傷を負っており、指揮権をサイモン・グリフィン准将に渡していた。 南軍兵はマホーン砦から西に、砦と第30砲台の間の地点に後退した。第30砲台はデイビッド・G・コワンド大佐の旅団のノースカロライナ第53連隊が占拠していた。南軍兵は砦と砲台の間にある大きな柵の上に飛び降りて、そこから北軍兵に撃ちおろした。 パーク軍団は第25、第27、第28、第29砲台(マホーン砦)を占領し、これら工作物を繋ぐ塹壕も取ったが、南軍前線の約500ヤード (460 m) のみを取っただけで、攻撃が停止してしまった。ブライアン・グリムズがこれら工作物に向かう第2列を、フレッチャー・アーチャーのバージニア予備隊2個大隊と、コワンド旅団の部隊で保持し、砲台30から持っていった野砲に支援された。 南軍の反撃で激しい戦闘になり、柵から柵へと、午後の間続いた。両軍の兵士が、場所によって高さ10フィート (3 m)、厚さ20フィート (6 m) もある柵の上に飛び降り、敵方の密集している所に発砲することもあった。 グリムズは午後1時に2回目の攻勢を掛けさせ失地を回復しようとした。このためにパークが第6軍団からの援軍を要請することになった。グリムズは午後3時に3度目の攻勢を掛けさせ、マホーン砦の一部と、ジェルサレム板張り道路の東の北軍が占拠していた部分を取り返した。チャールズ・H・T・コリス大佐(名誉准将)の独立旅団が反撃して北軍有利の状態で安定させ、マホーン砦東の前線を再度占領した。 これらの攻撃で北軍は1,500名の損失を出した。南軍の損失は不明だが、ハンフリーズ将軍は、パークが捕虜800名、大砲12門、連隊旗数本を南軍の工作物で捕獲したと主張したと報告した。 その夜に戦闘が終わったとき、この戦場では南軍の工作物であったところを互い違いに占拠した状態で行き詰まりになっていた。ゴードン少将がリー将軍に、このときパーク軍団が占領していた前線約200ヤード (180 m) とマホーン砦の一部を奪還する価値があるかを尋ねた。リーの参謀がゴードンに、南軍はその夜にピーターズバーグを脱出する可能性があると伝えた。リーの脱出計画に随って、ゴードンは塹壕にいたその部隊の移動を午後9時に始めさせた。
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