ハドリアヌス帝による寵愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:22 UTC 版)
「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「ハドリアヌス帝による寵愛」の解説
127年、叔母ファウスティナ・マイヨルの親族であるハドリアヌス帝の推薦を受けて、アウレリウスは6歳の時に騎士名簿へ登録された。少年時代に騎士階級へ叙任された事については、アウレリウス以前にも全く例がない訳ではないが、極めて珍しい出来事であった。更に翌年にはサリイという聖職の為の学校へ推薦されたが、入学規定を満たしていなかったアウレリウスの為に規定を改訂させている。ハドリアヌスはアウレリウスを寵愛しており、ウェリッシムス(Verissimus)という渾名で呼んでいた。アウレリウスは神学校で熱心に学び、優れた聖職者としての素養を得た。一方でハドリアヌスは帝都ローマに留まらず、各属州への巡行に時間を費やしていたので、アウレリウスと直接会う機会はそれほどなかった。 135年、ハドリアヌスが久しぶりにローマに戻った時、アウレリウスは皇帝の重臣ルキウス・アエリウス(ハドリアヌスを暗殺しようとしたガイウス・アウィディウス・ニグリヌスの娘婿で、ルキウス・ウェルスの父)の腹心に成長していた。136年、成人したアウレリウスはハドリアヌスの命令によって、アエリウスの娘ケイオニアと婚約して皇帝の側近としての立場を確立した。結婚からまもなく、ルキウス・アエリウスによってアウレリウスは首都長官に任命された。この時代の首都長官は要職という位置づけながら、何の実権も伴わない名誉職という部分が大きく、貴族の若者の登竜門のような意味合いがあった。アウレリウスは首都長官として相応しい振る舞いをしたという。 ルキウス・アエリウスを通して、アウレリウスは「カルケドンのアポロニウス」というストア派の哲学者の知遇を得た。ストア派哲学との出会いはアウレリウスの禁欲的な生き方として多大な影響を与えた。またアポロニウスは哲学の教師としてアウレリウスにストア派の講義を行い、アウレリウスから神に出会いを感謝された3人の一人となった。後に姉コルニフィキアが従兄弟のウッミディウス・クァドラトゥスと結婚した時、アウレリウスは母ドミティア・ルキッラから父の遺産の一部を姉に持参金として譲るように求めたが、アウレリウスは遺産全てを姉に譲ったという。 136年、既にハドリアヌスは不治の病に侵されていたが、同性愛者であった事から嫡男を授かっていなかった。別荘で病床に就いたハドリアヌスは、腹心であるルキウス・アエリウスを後継者に指名した。ハドリアヌスがアエリウスを特に選んだ理由については明確には分かっていない。 138年、ドナウ川における短い駐屯を経てルキウス・アエリウスは元老院で演説を行う為に帰路へ就いた。しかし演説を行う前日に吐血して倒れ、そのままローマで病没した。この事件が起きた後、ハドリアヌスは1月24日にもう一人の重臣で、大ファウスティナと結婚していたアウレリウス・アントニヌスを後継者に指名した。ただし帝位継承には、「ルキウス・アエリウスの子ルキウス・ウェルスと、大ファウスティナの甥であるカティリウス(アウレリウス)を養子とする事」と、「大ファウスティナとの子である小ファウスティナを、ルキウス・ウェルスと婚約させる事」が条件とされた。2月25日、アントニヌスはハドリアヌスの後継者となる事を受け入れ、条件の履行を約束した。 ちなみにアウレリウス自身には相談されていなかったらしく、突然に叔母夫婦の養子とされた事に愕然としたという。アウレリウスは渋々といった態度で母の家から離れ、ハドリアヌスの離宮へと移り住んだ。 ハドリアヌスは元老院に対し、アウレリウスが財務官への就任年齢(24歳)の規定から特例的に除外されるように命令した。元老院は要求に屈して、後にアウレリウスは18歳で財務官に就任している。アウレリウスが皇帝候補者である外叔父アントニヌスの養子とされた事は、典型的な過程を無視した立身に繋がった。恐らく普通の立身であれば、まずアウレリウスは造幣官に任命されていたと考えられる。ある程度の経歴を積んだ元老院議員はトリブヌス・ミリトゥム(軍団幕僚)となり、名目上の軍団副司令官を務めるのが一般的であった。恵まれた立場にあったアウレリウスであったが、周囲の貴族的な退廃には呑まれず、清廉な生き方を続けた。 日に日にハドリアヌスの病状は悪化していき、何度か自殺未遂を繰り返しては周囲に押し留められていた。治療を諦めたハドリアヌスはカンパニアの保養地バイアエへ向かい、そこで食事や飲食などの放蕩に耽る様になった。138年7月10日、ハドリアヌスはアントニヌスに看取られて病没した。彼の遺骸はポッツオーリに埋葬された。 元老院と終始敵対し続けていたハドリアヌスの後であったが、アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された。またアントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた。周囲と軋轢無く政治を進めるアントニヌスは「アントニヌス・ピウス」(慈悲深きアントニヌス)という渾名で呼ばれた。
※この「ハドリアヌス帝による寵愛」の解説は、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の解説の一部です。
「ハドリアヌス帝による寵愛」を含む「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事については、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の概要を参照ください。
- ハドリアヌス帝による寵愛のページへのリンク