ハドリアヌスの建築と首都ローマの停滞
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「ローマ建築」の記事における「ハドリアヌスの建築と首都ローマの停滞」の解説
古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれるハドリアヌスは、トラヤヌスが獲得したパルティアなどの不安定な領土の維持を放棄し、国境線を画定した ため、バル・コクバの乱を除いては、帝国は平和な時代を迎えた。ハドリアヌスによってもたらされた平和は、ローマ建築を成熟させ、帝国の威厳を体現するようなすばらしい建築を生み出すことになった。 118年から128年にかけて建設されたパンテオンは、現在でも内部空間を実感できる、ローマ建築を代表する建築物である。真円の平面はたいへん単純なものだが、圧倒的な大きさの半球ドームと、その頂点から差し込む光によって、象徴的な空間となっている。あまりにも完成された空間であったことと、構造を改編することが容易だとは思われなかったことで、ローマが完全にキリスト教化した後もこの建物は破壊されず、608年、あるいは610年前後にキリスト教の聖堂として聖別された。この象徴性は、恐らくその設計のなかに隠された明快な比例関係に起因する。また、基礎は、地盤面下幅約7m、深さ約4.5mに渡って造成されたローマン・コンクリートの上に組積された大理石で、建物上部は凝灰岩、その上は軽石とローマン・コンクリートによって整形されている。構造体には意図的に空洞が穿たれ、建物の自重を軽減しており、工学的に見てもたいへん優れた設計が行われていることが分かる。 ハドリアヌスがティヴォリに作らせたヴィッラは、18世紀にイギリスで好まれたカントリー・ハウスに酷似した建築である。風景に対する憧れはローマの人々の心にすでに刻まれていたもので、キケロやティベリウス、ネロ、ドミティアヌスらは、自らの好む別荘やヴィッラを所持していた。ハドリアヌスのヴィッラは、この種の建築としては残存する数少ないものであり、特定の平面や構成を持たず、自然の環境や風景に応じて、かなり自由に造られたヴィッラの特徴をよくつかむことができる。ハドリアヌスの趣味はかなり折衷的なもので、彫刻については完全なギリシアのものからエジプト風のものまで一緒に置かれており、ほとんど好事家的であるが、建物そのものは、技術的洗練と曲線の多用、色彩への関心、そして内部空間を外部に率直に表現することへの試みが見られる、当時最新の住宅建築であった。「カノプス」、「海の劇場」、「黄金の広間」など、このヴィッラには多くの前衛的試みが詰め込まれているが、それがこのヴィッラの魅力であると言えよう。 ハドリアヌスの建設した建物で、最も有名で、最もよく目にするものが、現在はサンタンジェロ城と呼ばれているハドリアヌスの霊廟である。上部は後に補強されたもので、現在はローマ時代の下部構造が残る。その着想はアウグストゥスの霊廟にあることは間違いないであろうが、より現代的な、そして要塞のようなデザインであった。実際に、4世紀にはアウレリアヌスの市壁に組み込まれた軍事要塞として活用され、現在では完全に城として生まれ変わっている。 ハドリアヌス帝の時代まで、ローマ建築は意匠的にも工学的にも、絶え間のない開拓が試みられたが、アントニヌス・ピウスが即位した138年以降、ローマ市の建築活動は極端に鈍化した。首都ローマは2世紀中期には継続的な建設活動によって公共建築の飽和状態を迎えており、また、文化的にも急速に進んだ西方属州に追いつかれようとしていた。皇帝による公共事業は、セプティミウス・セウェルス、カラカラ、アレクサンデル・セウェルスまでの短い期間に行われただけで、比較的大きな公共工事は、カラカラ浴場、アレクサンデル・セウェルスの浴場、そしてパラティヌスの丘の宮殿拡張工事が行われたに過ぎない。続く3世紀には、政治的混乱によって首都の建築活動は完全に停滞期を迎え、やがて首都はコンスタンティヌス帝によって完全に見捨てられることになるのである。
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