ハドリアヌスの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 07:18 UTC 版)
「アエリア・カピトリナ」の記事における「ハドリアヌスの治世」の解説
ユダヤ戦争により、エルサレム神殿は往時の面影無く徹底的に焼かれ破壊しつくされた。都市としてのエルサレムも戦争以来再建はなされず、野獣が跋扈し荒れるにまかせる有様になった。。破壊し尽くされた中残ったヘロデの王宮跡にはローマ軍第10軍団m(Legio X Fretensis)が駐留していた。この間ユダヤ教のナーシーであるガマリエル2世が、聖書聖典からイエスの教えを伝える「福音書」を異端と見なしてこれを排除したことで、ユダヤ教徒とキリスト教徒は完全に決別しこの後共闘することはなかった。このような状況下にあってもユダヤの完全なる解放を切望する急進派「熱心党」(ゼーロータイ)等らによる扇動活動は止まず、反ローマの気運は潰えることはなかった。トラヤヌス帝(在位:98年-117年)の末期、各地に離散していたユダヤ人による小規模な反乱が連鎖的に発生(キトス戦争、またはディアスポラ反乱)するものの、それらも短期で鎮圧される。 トラヤヌスが死ぬとハドリアヌス帝(在位:117年-138年)が皇帝に即位する。ハドリアヌスは帝国内の臣民に対し穏健な政策を執り、ユダヤ人に対しても治世開始の当初は温厚な顔を見せてエルサレム神殿を再建する約束さえ与えた。トラヤヌス治世下の戦乱に疲弊していたユダヤ人は、ハドリアヌスをかつてバビロン捕囚からユダヤ民族を解放した王になぞらえて「第二のキュロス」とまで呼んで称えたが、結局神殿が再建されることはなかった。 ハドリアヌスは晩年になって、ユダヤ人に関連する二つの勅令を出す。一つ目は「エルサレムの再建」に関する計画、二つ目は「身体の一部を切除する行為」の禁止、である。「エルサレムの再建」とは一神教ユダヤ教の中心地としてではなく、完全にローマ人・非ユダヤ人の為に都市化することであり、エルサレム神殿の跡にユピテルの神殿を築き、都市の名前も「アエリア・カピトリナ」と改名することとした。「身体の一部を切除する行為」とはユダヤ教においては割礼に他ならない。神との契約の証である割礼を禁止されることはユダヤ人にとって到底看過し得ない事であったが、ハドリアヌスはこれを破った者には死罪をもって報いるとまで強硬な姿勢を示した。唯一無二の信仰であるユダヤ教に対する耐えがたい冒涜であると受けとめたユダヤ人達の反ローマ感情はもはや後戻りできない程まで高まり、再び大規模な反乱が勃発することとなった。ユダヤ人達の反発を招くことが必至なこのような政令の公布は、彼らが奉ずる一神教の性質がローマの多神教的文化とは相容れないものと判断したハドリアヌスが戦争を誘発させるために故意に行った挑発であったという見方も存在する。
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