第6軍団フェッラタとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 第6軍団フェッラタの意味・解説 

第6軍団フェッラタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 19:19 UTC 版)

第6軍団フェッラタ (Legio VI Ferrata) は、ローマ軍団のひとつ。紋章はカエサル創設の印である牡牛、しかし母狼とロームルスレムスも紋章として使われた。

歴史

紀元前52年ガイウス・ユリウス・カエサルによって創設され、ウェルキンゲトリクスとのアレシアの戦いに参加した。そしてカエサルがルビコン川を渡り、共和政ローマに進軍すると、これに付き従いヒスパニアへ転戦、そして東方に転じ紀元前48年ファルサルスの戦いにも参加している。

カエサルの暗殺英語版後、第6軍団はマルクス・アエミリウス・レピドゥスの指揮下、次いでマルクス・アントニウスの指揮となり、ピリッピの戦いに従軍、その後にユダヤ属州に駐在する。そしてアントニウスのパルティア戦役に従軍、しかし遠征に失敗する。その後もアントニウスの指揮下に留まり、ギリシアに駐在、しかしアントニウスはアクティウムの海戦で敗れた。

アウグストゥスと名乗るオクタウィアヌスの指揮下に入った第6軍団は東方シリアに駐在、第3軍団ガッリカ・第10軍団フレンシス・第12軍団フルミナタとともにパルティアからの防衛を担う。20年にはパルティア遠征に参加、遠征は成功を収め紀元前53年マルクス・リキニウス・クラッススの敗北により奪われた軍旗を取り戻す事に成功する。そしてユダヤ属州に移動、シリア総督プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスのもとで反乱を鎮圧する。また58年にはグナエウス・ドミティウス・コルブロの指揮下に入り、対アルメニア戦役に第3軍団ガッリカ、第10軍団フレンシス、第12軍団フルミナタとともに参加、成功を収める。

再びユダヤ属州に戻った第6軍団はユダヤ戦争に従軍、ローマ皇帝ネロウェスパシアヌスをユダヤへ赴任されるが、戦争遂行中の69年にネロが自殺、ローマは4人の皇帝自認者を巡る内乱となる。その中で第6軍団はウェスパシアヌスを支持、第6軍団の一部は盟友ガイウス・リキニウス・ムキアヌスのもとでイタリアに進軍した事が分かっている。帰還後、ユーフラテス川流域に駐在した。

トラヤヌスの治世、第6軍団はアルメニアに遠征、属州とする。そしてユーフラテス川流域のメソポタミアに進軍するが、次のハドリアヌスの治世には撤退、ユーフラテス川を国境とした。そして119年にはアラビア属州に移動となり、ここを基盤としてユダヤ属州でのバル・コクバの乱の反乱鎮圧を担う。

セウェルス朝時代以降

ペルティナクスの暗殺後、ローマは再び内乱となり、第6軍団はセプティミウス・セウェルスを支持、セウェルスは権力闘争に打ち勝ち、ローマ皇帝となったが、その中で第6軍団はペスケンニウス・ニゲルとの戦闘で功績を挙げた。しかしながら、その内容については知られてはいない。アレクサンデル・セウェルスの治世に長らくパレスチナ(ユダヤ属州の一部)に駐留していた第6軍団はフェニキアへと移動させられた。これ以降、記録はまばらとなる。

フィリップス・アラブスの治世には、その時代に発行された貨幣によって第6軍団の存在が確認されるが、時代が下ってサーサーン朝シャープール1世とのエデッサの戦い(ローマ皇帝ウァレリアヌスが捕虜となった)の記録に第6軍団の記載はなかった。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第6軍団フェッラタ」の関連用語

第6軍団フェッラタのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第6軍団フェッラタのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第6軍団フェッラタ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS