ナチス・ドイツの占領、1941–1944
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「バルト諸国占領」の記事における「ナチス・ドイツの占領、1941–1944」の解説
バルバロッサ作戦におけるソビエトへの侵攻の後、ドイツはバルト諸国地域を占領した。最初リトアニア人、ラトビア人およびエストニア人は、ドイツがソビエトの支配から彼らを解放するものであると考えた。リトアニアでは戦争の初日に反乱が起こり、独立臨時政府が設立された。ドイツ軍がリガとタリンに近づくにつれ、国民政府を再建しようとする試みがなされた。ドイツがバルト三国の独立を回復することが望まれた。そのような政治的願望はすぐ失われ、バルト三国の協力は率直さを欠くようになったり、あるいは全く停止された。ドイツがバルト三国(1939年に第三帝国に取り戻されたクライペダ地方を除き)とベラルーシの大部分を東方占領地域(Reichskommissariat Ostland)と呼ばれる四つの国権をドイツの管理の下に統治する植民地に変更するに従ってナチ体制に反対する地方住民の割合は増えている。ドイツのナチ政治家ヒンリヒ・ローゼがソビエトによる再占領まで、その植民地の監督官であった。 この地域におけるドイツの方針は厳しく、地元住民を服従させ、ホロコーストに巻き込んだ。東側で征服した領土の植民地化のためのナチの計画の1つは東部総合計画と呼ばれ、ドイツの勝利の場合にはバルト三国の領域から地元住民の約3分の2に及ぶ大規模な国外追放を求めていた。 戦争末期、ドイツの敗色が濃厚になってくると、多くのリトアニア人、ラトビア人およびエストニア人は再度ドイツに加担した。彼らはそのような戦争に関わることで、バルト三国がソ連から独立を得るための西側諸国の支援を呼び込むことができるようになることを望んだ。ラトビアでは1943年8月13日、地下組織としてのラトビア国家主義者中央会議が成立した。1943年11月25日、類似の組織としてリトアニア解放最高委員会が誕生。1944年3月23日にはエストニア共和国の地下国民委員会が設立された。エストニアは国として東方占領地域(Reichskommissariat Ostland)のドイツ行政区に組み込まれた。ナチスに味方する気持がない数千のエストニア人はソ連と戦うためにフィンランド軍に加わっている。フィンランド歩兵連隊200(Finnish Infantry Regiment 200)はフィンランド国内のエストニア人志願兵で編成され、世間では「フィンランド・ボーイズ」(エストニア語: soomepoisid)として知られた。1944年1月にはロシアの前線は以前のエストニア国境近くまで進んでいた。ナルヴァから退避が行われた。1940年にソ連によってエストニア共和国が併合される前の同国憲法に従えば最後の合法的首相だったユーリ・ウルオツはエストニア共和国の地下国民委員会の長となり、1904年から1923年までに生れた健康な男性に兵役に応ずるよう懇願するラジオ演説を行った(その前にはウルオツはエストニア人の動員に反対していた)。この呼び掛けは国中からの支持を得て、3万8千人の志願兵で受付は混雑した。ソビエトの進軍に対してエストニアを守る任務に従事するため新規に編成された領土防衛軍(Territorial Defense Force)に加わるためにフィンランド軍に加わっていた数千のエストニア人はフィンランド湾を渡り帰国している。1943年および1944年には、赤軍と戦うために主に徴兵によって集められたラトビア人からなる武装親衛隊の2師団 (Latvian Legion) が編成された。ナルヴァの戦いはエストニア人に自国のための戦いであると認められ、1939年にあった事件に対する屈辱の気持を和らげるものであった。北東部国境におけるドイツの長い防衛陣はソビエトのエストニア国内への短期突破を防ぎ、このことはエストニアの地下国民委員会にエストニアの独立回復を試みる十分な時間をもたらした。1944年8月1日、エストニア国民委員会は、それ自体をエストニアの最高権威と宣言し、さらに1944年9月18日、代理元首ユーリ・ウルオツはオットー・ティーフを指導者とする新しい政府を定めた。英語によるラジオ放送によりエストニア政府は戦争における中立を宣言した。その政府は官報を2回発行している。9月21日、国民軍がタリンの政府庁舎を占拠し、ドイツ軍に退去を命令した。エストニアの旗はタリンの最も高い塔 (Pikk Hermann) のポールに掲げられたが4日後にはソビエトによって取り除かれている。エストニア亡命政府は1992年までエストニア国家の継続を将来に渡すために活動し、その時国家元首の任にあった最後の首相であるハインリヒ・マルク (Heinrich Mark) が彼の信任状を後任のレナルト・メリ大統領に渡した。ラトビアとリトアニアはアメリカとイギリスの大使館を拠点として亡命状態の中、存在を続けた。
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