ナチス・ドイツへの協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/23 17:46 UTC 版)
「ノーマン・ベイリー=スチュワート」の記事における「ナチス・ドイツへの協力」の解説
1937年に釈放された後、ベイリー=スチュワートはウィーンに移りオーストリアの市民権を求めた。ただし、この要求は居住要件を満たしていないとして拒否された。1937年8月[要出典]、オーストリア政府は彼がナチス・ドイツのエージェントであると疑い、オーストリアから3週間以内に退去するように命じた。また移住の拒否に関してウィーンの英大使館に支援を求めたものの拒否されており、この頃から彼は英国への反発を隠そうとしなくなった。彼は英国への帰国を取り止め、チェコスロバキア・ブラチスラヴァへ移住した。 1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合が行われた。同年中にベイリー=スチュワートはオーストリアでの居住を認められ、ウィーンにて貿易事務所を起業した。これと同時に帰化も申請していたが、これが認められ彼がドイツ市民となったのは1940年のことである。 1939年7月、友人とのパーティに出席したベイリー=スチュワートはドイツ側による英語の宣伝放送を耳にする機会があった。彼はその放送内容を批評し、それを聞いていた客の1人を通じてオーストリアのラジオ局で働くことになる。さらにベルリンでボイステストを受けた後、ドイツ宣伝省に従属し宣伝放送を行う大ドイツ放送局(ドイツ語版)の英語キャスターとなった。彼は英国の対独宣戦布告の直前、週に一度行われていた英語の宣伝放送『Germany Calling(英語版)』にていくつかのニュースを読み上げた。 『デイリー・エクスプレス・ラジオ』にてジョナ・バリントンが最初に「ホーホー卿」と名付けたドイツ側宣伝放送のキャスターは、ベイリー=スチュワートかヴォルフ・ミットラー(英語版)であったとされる。後にウィリアム・ジョイスの名が知られるようになると、ホーホー卿の呼び名はジョイス個人を指して使われることが多くなった。その他、ベイリー=スチュワートとされるキャスターに対しては「不吉なサム」(Sinister Sam)という呼び名も使われた。 1939年末までに、ベイリー=スチュワートの補佐要員だったウィリアム・ジョイスが頭角を現し始めた。そして1939年12月の放送を最後に、ベイリー=スチュワートは宣伝放送のキャスターを降板することになる。以後は外務省で翻訳業務を手がける傍ら、ベルリン大学にて英語の講義を行った。1940年初頭、ドイツの市民権を獲得する。 1942年初頭、彼は「ランサー」(Lancer)の名義で大ドイツ放送局およびルクセンブルク放送局(英語版)における英語宣伝放送に関与した。 1944年、ベイリー=スチュワートはいくつかの治療の為にウィーンに向かったが、1945年にアルタウッセ(英語版)にて逮捕され、大逆罪の咎で英国へ送還された。
※この「ナチス・ドイツへの協力」の解説は、「ノーマン・ベイリー=スチュワート」の解説の一部です。
「ナチス・ドイツへの協力」を含む「ノーマン・ベイリー=スチュワート」の記事については、「ノーマン・ベイリー=スチュワート」の概要を参照ください。
- ナチス・ドイツへの協力のページへのリンク