ナチス・ドイツ最後の元帥・空軍総司令官
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「ローベルト・フォン・グライム」の記事における「ナチス・ドイツ最後の元帥・空軍総司令官」の解説
第二次世界大戦が勃発してポーランド侵攻作戦が終了すると、中将に昇進して第5航空軍団長に任命された。西方電撃戦勝利後の翌1940年7月19日、航空兵大将に昇進。バトル・オブ・ブリテンでも第5航空軍団を率いた。1942年4月1日に東部航空軍司令官に就任、翌1943年初めに上級大将に昇進した。東部航空軍は同年5月に第6航空艦隊と改称され、独ソ戦での中央軍集団支援を任務としていた。1943年7月のツィタデレ作戦当時、グライムの配下には730機があった。しかし戦闘での消耗や、交換部品の不足に起因する技術的問題により、翌1944年6月のソ連軍大攻勢の際はわずか50機しか残っていなかった。 敗色濃厚な1945年1月の時点でもなお、グライムはヒトラーへの忠誠心を失っていなかった。「総統を信じたことは……間違いだったかもしれない、だがなお彼を信じている。私は裏切り者にはなれない。私には出来ない!」と記している。敗戦直前の1945年4月23日に空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングがヒトラーにより一切の権限を剥奪されたのち、グライムは近しい関係にあった女性飛行士ハンナ・ライチュと共に、ソ連軍の重包囲下にあるベルリンに、対空砲火で負傷しながらもシュトルヒ偵察機で駆けつけた。ヒトラーはグライムの忠誠心に感激し、その場でゲーリングの後任としての空軍総司令官に任命するとともに、彼を元帥に列した。これに対しグライムは「総統とそのお力に非常に励まされました」と答えた。ただし、有名無実な司令官職のため大変な危険を冒してまでベルリンに呼びつけられたことで呆れていたとも言われている。グライムはヒトラーとともに総統防空壕に残ることを希望したが、ヒトラーはグライムに対して、ベルリンを脱出して新・空軍総司令官としての職責を果たすように命じた。なお、ヒトラーの遺書の中でも、グライムの名は空軍総司令官として挙げられている。 ベルリンを脱出したグライムは、数日後に南ドイツでハンナ・ライチュと共にアメリカ軍の捕虜となった。ザルツブルクに移送されたグライムは、そこで自分がソ連に引き渡されることを米軍から知らされた。絶望したグライムは5月24日にザルツブルクの獄中で自決した。自決に使用した毒薬は総統地下壕でヒトラーから授かったものだった。グライムの墓はザルツブルク共同墓地にある。
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