ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論
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「反ユダヤ主義」の記事における「ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論」の解説
1776年、自由主義神学者のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書とネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた。 1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された。 啓蒙専制君主フリードリヒ2世は1740年の『反マキャベッリ論』で、モーセが「神感を受けていなければ、大極悪人、偽善者、ないし作者が困っているときに劇に大団円をもたらしてくれる機械仕掛けの神を用いる詩人のように、神を利用していた詐欺師としか」みなしえない「モーセはたいへん稚拙だったので、ユダヤ人を導くのに、六週間で非常に通れたはずの道に四十年もかかった。彼は、エジプト人たちの知識をほとんど利用しなかった。」「ユダヤ人の先導者は、ローマ帝国の建国者(ロムルス)、ペルシア帝国の大王、ギリシアの英雄たち(テセウス)よりも、はるかに劣っていた」と述べた。フリードリヒ2世はモーセ、キリスト、ムハンマドを詐欺師とする『三詐欺師論』などの無神論の影響を受けていた。ただし、フリードリヒ父王はユダヤ人が一般職業に就くことを禁止したが、フリードリヒ2世はユダヤ人取扱を改善しており、ロスバッハの戦勝記念(1757年)に際しモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人保護法のもと建設されたベルリンのシナゴーグで、ユダヤ人解放を実現した国王として祝福した。 フリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学論』 をフランス語で著述し、ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにあるとした。クラインは、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったと述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した。 プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドームは、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した。ただし、ドームはユダヤ教の棄教を解放の条件とした。 ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した。ミヒャエーリスは聖書と普遍史を批判したことでも高名だが、すべての言語が一つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていないとした。 1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した。 ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた。1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた。1782年、メンデルスゾーンはメナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた。
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