スキーフライング世界選手権の開始とスキージャンプ・ワールドカップへの参加(1970-1980年代)
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「スキーフライング」の記事における「スキーフライング世界選手権の開始とスキージャンプ・ワールドカップへの参加(1970-1980年代)」の解説
ヨーロッパ以外でも1969年にアメリカ、ミシガン州アイアンウッドにK=145mのカッパーピークジャンプ台が建設され、1970年3月に北米最初のスキーフライング大会が行われた。ただしこのフライング台はヨーロッパのフライング台より規模が小さく、世界記録の更新合戦に加わることは無かった。スキージャンプ・ワールドカップは1981年に1度だけ行われ、1994年限りでFISの公認が切れてしまった。 1971年にオパティヤ(ユーゴスラビア、クロアチア)で開催されたFIS総会にて、1972年にプラニツァで第一回スキーフライング世界選手権を開催することが決定された。 1972年3月23日から26日に行われた第一回スキーフライング世界選手権は強風の影響で1日のみの本戦となり、スイスのヴァルター・シュタイナーが優勝、2位ハインツ・ウォジピヴォ(東ドイツ)、3位イジー・ラシュカ(チェコスロバキア)となった。 その長距離ジャンプから「鳥人」とニックネームされた21歳のシュタイナーにとっては直前の札幌オリンピック90m級銀メダルに続く輝かしい成績となった。翌1973年に179m、1974年に177mという驚異的なジャンプをしたがいずれも転倒し、世界記録にはカウントされていない。シュタイナーはスキーフライングは「不条理の記念碑」として新記録を求めるだけの競技の終結を求め、自身の経験から、飛行曲線からの落下は潜在的に死の危険があると述べた。「スキーフライングの安全性」は1970年代の主要なテーマとなった。 1976年、オーベルストドルフでのスキーフライング週間ではオーストリアの17歳アントン・インナウアーが初日に174m、二日目に176mと二日続けて世界記録を更新した。最初の世界記録挑戦についてインナウアーは1992年に出版した自叙伝で述べている。「記録を作るには完璧なジャンプが必要だった」。 私はこの次元を知らず、私自身に起こったことに混乱した。地上に戻りたいと思っていた。次第に高度を失い、地上に舞い戻った。両足で着地して174メートルの世界記録を樹立した。 私はこのジャンプ台ではこれ以上完璧なジャンプは不可能であることを知った。それは、あまりに遠すぎた。 その後、スイスの物理学者ベノ・ニッヒがこのジャンプを分析し、インナウアーは途中で諦めなければ222メートルジャンプできたことを計算で導き出した。もっともこの時代ではそれだけ飛ぶと反対の斜面まで行ってしまうだろう。 インナウアーは、1972年と1977年の2度世界選手権を制したスイスのシュタイナーと並び1970年代最高のフライング選手であった。 1979年にスキーフライング世界選手権を制したアルミン・コグラーは1981年にオーベルストドルフで180mを飛んで5年ぶりに世界記録を更新。全体的に見て、世界の指導者の間ではスキージャンプとスキーフライングの間に大きな違いは無いとみられていた。シュタイナーは1972年札幌オリンピック90m級銀メダリスト、インナウアーとコグラーはともにノルディックスキー世界選手権の70m級で金メダルを獲得している。 1979-1980シーズン、チェコスロバキアのハラホフにチェルチャークスキーフライングシャンツェがオープン、同じシーズンからスキージャンプ・ワールドカップも始まった。ワールドカップでもスキーフライングが行われたが、当初は同じ日程で別にスキージャンプの試合も実施されており、最初のシーズンはスイスでスキージャンプ、ヴィケルスンでフライングのワールドカップが行われた。フライングでは地元のペール・ベルゲルードが勝利した。同日程でスキージャンプとスキーフライングを実施する方式は翌シーズンまでで終了し、1981-1982シーズンからはスキーフライング単独でワールドカップにスケジュールされるようになり、これとは別に2年に一度スキーフライング世界選手権が開催されている。1983年チェルチャークスキーフライングシャンツェで行われたスキーフライング世界選手権で地元のパベル・プロッツが181mの世界新記録を樹立した。1980年代にスキーフライングで最も活躍したのはフィンランドのマッチ・ニッカネンであった。ニッカネンは1985年の世界選手権で優勝したほかワールドカップで6勝、また、通算4回世界記録を更新した。1985年のスキーフライング世界選手権(プラニツァ)で、ニッカネンは他を圧倒した。マッチ・プーリ(Matti Pulli)コーチはニッカネンが危険な所まで飛びすぎないようにあえて風の条件が悪い時にスタートさせた。それにもかかわらず180mを超えるジャンプを連発、191mの世界新をマークするなど2位に50ポイントの大差をつけ優勝した。 翌1986年のスキーフライング世界選手権(クルム)では地元のアンドレアス・フェルダーがニッカネンの記録に並んだ。この直後FISは飛びすぎを防止するためとして191mを飛距離の上限としこれ以上の飛距離は認定しないこととした。 この措置に効果が無いことはすぐに証明された。1987年、プラニツァのワールドカップで測尺員はピオトル・フィヤスの大ジャンプを194mと発表し、観客と記録を共有したが記録は非公認となった。後にアントン・インナウアーとマッチ・ニッカネンはそれぞれの自伝でFISのこの措置は「不合理」、「無意味」と断じた。 このルールは1994年スキーフライング世界選手権などの一部のレースの順位に影響を与えた。178mと182mを飛んだエスペン・ブレーデセンが2位、160mと199mを飛んだが上限ルールにより191mとして扱われたロベルト・チェコンが3位となった。表彰式の2時間半後、事実はチェコンが2位だとしてお互いのメダルを交換した。
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