スアンロク攻防戦の始まり
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「スアンロクの戦い」の記事における「スアンロク攻防戦の始まり」の解説
ロンカン省スアンロク付近の主要目標を全て確保した北ベトナム軍第4軍団では、スアンロク死守の任に付いた南ベトナム軍第18師団に対する大攻勢の為に4日間の準備期間を設けた。北ベトナム軍第4軍団司令官ホアン・カム少将は作戦方針について、攻撃主力を彼自身が率いる歩兵による総力正面攻撃と定め、これを北および北西側に展開する砲兵および戦車が援護するものとした。さらに東側からも北ベトナム軍第4軍団副司令官ブイ・カト・ブ大佐率いる部隊が攻撃を行うこととなった。北ベトナム軍が着々と攻勢の準備を整える中、南ベトナム軍のレ・ミン・ダオ将軍とロンカン省地方軍司令官グエン・バン・フク大佐もまた敵の大攻勢を見越して各部隊の移動を行なっていた。戦闘の直前、ダオは海外メディアに対する会見で次のように語った。 私はスアンロクの死守を決断した。例え共産主義者がありったけの師団をここに派遣したとしても、私はそれら全てを撃滅しよう!全世界は我がベトナム共和国陸軍の精強さを目の当たりにするであろう。 —レ・ミン・ダオ、 1975年4月9日午前5時40分、北ベトナム軍第4軍団はスアンロク市街地に対する砲撃を開始した。これに呼応して市街北側から突入した北ベトナム軍第341歩兵師団の一部は1時間以上にわたる激しい戦闘の末に南ベトナム軍の通信施設と警察署を占領する。しかし北側から移動しつつあった北ベトナム軍部隊は南ベトナム軍第52タスクフォースによる反撃を受けて足止めされた。東側からは北ベトナム軍第7歩兵師団が接近していたが、彼らは戦車による援護を受けられなかった為、戦闘の初期段階で大きな損害を被ることになる。8時までに北ベトナム軍第4軍団司令部は第7歩兵師団を援護するべく8両の戦車を派遣したが、これらは到着前に南ベトナム軍によって全て撃破されている。 正午までに北ベトナム軍第209、270歩兵連隊が南ベトナム軍第18師団司令部と知事公邸の防衛に当たっていた南ベトナム軍第43、48歩兵連隊を撃破、これらの施設を占領する。さらに市街南側では北ベトナム軍第6歩兵師団がホンギア-メボンコンを通る幹線道路1号線上に設置された南ベトナム軍の防衛陣地を攻撃、占領した。4月9日、南ベトナム軍第18師団は北ベトナム軍の両側面に対する反撃を行う。これは北側および北西側を主とする北ベトナム軍の攻勢を遅延することが目的であった。 4月10日から11日にかけて、北ベトナム軍第7歩兵師団は複数回に渡り南ベトナム軍の有力部隊、すなわち第18師団、第52タスクフォース、第5装甲騎兵中隊の撃破を試みた。しかし攻撃を試みる度に側面攻撃などの妨害を受け、結局はいずれの部隊の撃破にも失敗している。北西側でも北ベトナム軍第341歩兵師団所属の北ベトナム軍第226、270歩兵連隊が南ベトナム軍第43歩兵連隊、第322装甲旅団による側面攻撃を受けて足止めされ、大幅に遅延を余儀なくされている。北ベトナム軍が有力部隊撃破を試みていた2日間、南ベトナム第5空軍師団が南ベトナム軍第18師団に対する支援として200回以上の航空支援を行なっている。4月11日深夜、レ・ミン・ダオは密かにタンフォンに南ベトナム軍第18師団司令部を移して戦力の再結集を図り、さらなる抵抗を試みた。その一方、ファン・バン・フク大佐もまたヌイティに臨時司令部を設置して抵抗を再開している。 4月12日、南ベトナム軍参謀本部ではスアンロク防衛の為に予備戦力の投入を決定する。これを受けて南ベトナム軍第1空挺旅団がバオディンのゴム農場に防御陣地を構築し、また2個海兵旅団がビエンホアから続く東側街道の守備についた。さらにタンフォンとダウジアイは南ベトナム軍第33レンジャー大隊、第8、第5歩兵師団、第8歩兵大隊、第315、第318、第322装甲旅団などによる援軍を受ける。これらの援軍が前線に向かう経路を確保するべく、ビエンホアおよびタンソンニャットの南ベトナム空軍作戦機は一日あたり80~120回の戦闘出撃を行なったという。4月12日午後2時、スアンロクから程近いスアンビンの集落に対して南ベトナム空軍所属のC-130が2発のCBU-55デイジーカッター爆弾を投下した。同集落は北ベトナム軍が拠点として利用しており、この爆撃によって民間人と北ベトナム軍将兵あわせて200名が死亡した。また、南ベトナム軍側でも爆風に巻き込まれたことによる少数の犠牲者が出たとされる。 4月13日、南ベトナム解放軍(南ベトナム解放民族戦線の軍事部門)司令官のチャン・ヴァン・チャ将軍が北ベトナム軍第4軍団司令部を訪問する。チャ将軍は司令部将校団との会議の中で、攻撃作戦の方針変更を提案した。その方針とは北ベトナム軍第6歩兵師団と第341歩兵師団の一部をもってスアンロク防衛線の弱点と見なされたダウジアイを攻撃し、さらにバリア-ブンタウ間を繋ぐ幹線道路2号線およびスアンロク-ビエンホア間を繋ぐ幹線道路1号線に沿った防御陣地を設置していくというものであった。同日、北ベトナム軍第2軍団はスアンロク攻撃を援護するべく、第95歩兵連隊に対して北ベトナム軍第4軍団の指揮下に入る旨の命令を下す。北ベトナム軍の将軍たちが新たな作戦方針を討議していた頃、南ベトナム軍は共産主義者によるスアンロク攻撃の撃退と戦況の逆転を宣言した。スアンロクにおける南ベトナム軍の頑強な抵抗を受けてチュー大統領は「ベトナム共和国軍が祖国を守るべくその戦闘能力を回復した」旨を伝える声明を発表した。
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