サンディア研究所における初期の核融合研究 1960年頃~1995年頃とは? わかりやすく解説

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サンディア研究所における初期の核融合研究 1960年頃~1995年頃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:30 UTC 版)

Zマシン」の記事における「サンディア研究所における初期の核融合研究 1960年頃~1995年頃」の解説

Zマシンを含むサンディア研究所のパルスパワープログラムの起源は、1960年代初めごろ、冷戦緊張下で当時核兵器管理開発の任にあった国防総省(DOD)とアメリカ原子力委員会(AEC)が、核兵器発する高エネルギーガンマ線による被害検証するため、サンディア研究所高エネルギーX線実験設備開発の任を割り当てたことに端を発している さらに1970年代初めごろには、DODAEC熱核兵器核融合反応物理についての詳しい理解を得るため、研究室環境核融合反応再現する方法開発を、サンディア研究所及びローレンスリバモア国立研究所ロスアラモス国立研究所などに打診し始めた一方、この技術核融合エネルギー利用への道を開くものでもあった。1973年には石油危機勃発し核融合エネルギーにわかに注目を集めることとなり、AECからこの分野の研究について、これらの国立研究機関への大規模な資金供給が行われた。以降核兵器研究核融合エネルギー開発という2本の糸が複雑に絡み合いながら核融合炉開発競争繰り広げられることとなった核融合炉方式は、トカマク型代表されるプラズマ磁場閉じ込め(Magnetic Confinement)による連続反応方式と、核融合燃料密封した小さなペレット高エネルギーレーザーまたは粒子ビーム瞬時加熱してプラズマ化しその際発生する爆縮現象 (Implosion)によって慣性閉じ込めを行うパルス反応方式大別されるが、後者熱核兵器内部発生する現象ほとんど同じである前出の3研究所については、核融合反応研究核兵器研究起源としているため、研究対象はほぼ慣性閉じ込め方式限られていた(現在に至るまで同じ)。 1970年代初頭時点では、レーザーによる慣性閉じ込め方式については、ローレンスリバモア研究所ロスアラモス研究所がサンディア研究所より大きく先行しており、サンディア研究所にほぼ勝ち目はなかった。1972年にサンディア研究所電子ビーム加速器専門家実績有していた Gerry Yonas を核融合研究責任者として雇い入れ以降 Yonas の指揮のもとで、サンディア研究所核融合研究粒子ビーム慣性閉じ込め方式傾倒して行くことになる。 一方レーザーによる慣性閉じ込め方式についてはQスイッチやモードロッキング(英語版)といった技術的進展経て、現在はローレンスリバモア研究所国立点火施設 (National Ignition Facility : NIF)に集中して引き継がれているが、実用とはかけ離れた状態にいる。 この間1975年1月AEC原子力規制委員会(NRC)とエネルギー研究開発管理部英語版)(ERDA)に分割され、さらにERDA1977年エネルギー省 (DOE)に改組されている。以降サンディア研究所DOEDODからの資金提供粒子ビーム慣性閉じ込め方式研究進めていくことになる。 責任者の Yonas の下でサンディア研究所では Hydra (1972年)、 Proto I (1975年)、 Proto II (1977年)、といった初期電子ビーム慣性閉じ込め方式実験機による基礎研究が行われた。この当たりのことは、Yonas 自身1978年11月発行サイエンティフィック・アメリカン誌に、最初一般向け記事粒子ビームによる核融合」として紹介している。 1978年ごろから EBFA (Electron Beam Fusion Accelerator : 電子ビーム融合加速器)の建造始まったが、1979年至って HydraMite (Hydra改造機)、Proto II実験データ検証した結果電子ビームでは核融合達成できない可能が高くイオンビームの方がより適しているという結論達したこのため急きょ建造中のマシン設計変更行い以降このマシンは PBFA (Particle Beam Fusion Accelerator : 粒子ビーム融合加速器) と呼ばれることとなった。同じ1979年には PBFA の完成待たずに、さらに強力な粒子ビーム融合加速器である PBFA II 建造へのDOEからの資金供給決定された(このため PBFA は以降 PBFA I と呼ばれることになった)。この PBFA II が後に改造経てZマシン変貌を遂げることとなる。 1980年に PBFA I は完成し6月には最初試験が行われた。PBFA I は陽子ビーム用いていたが、ビーム形成電極 (diode)の効率と、陽子ビームターゲットへの収束において重大な問題抱えていた。この知見から設計中の PBFA II は、より粒子質量大きいリチウムイオンビームを用いることになった1985年に PBFA II完成し12月11日最初試験が行われた。一方 PBFA II完成により粒子ビーム核融合研究主役から退いた PBFA I は、W88核弾頭開発支援する目的で、粒子ビーム衝突による強力なX線発生装置である Saturn改造された(1987年)。 一方、サンディア研究所では1970年代中ごろから、軍事利用目的として爆縮ホイル(imploding foil)による強力なX線の発生研究してきたが、これは機密(classified)情報として外部に出ることはなかった。この研究は、1983年発表され戦略防衛構想 (SDI)と関連しながら1980年代中ごろ細々続けられており、Saturnパートタイムでこの研究用いることになったが、これはZマシンに至る1つ大きな道標となった。 この少し後でもう一つ決定的な道標ロシアからもたらされた。サンディア研究所では核融合国際共同研究として、機密触れない分野限定してロシア(当時まだソ連であった)ともコラボレーション行ってきたが、1990年代初頭行われた一連のコラボレーションにおいて、サンディア研究所は、ロシアAngara V という実験装置において、ワイヤーアレイを使用したZピンチにより、ホーラムを Saturn実績はるかに超えたレベルまで圧縮することに成功していることを知ったZピンチホイルではなくワイヤーアレイを用い方法は、当時クルチャトフ研究所所属Angara V の実験責任者1人であったValentin Smirnov が思いついたとされている。 Zピンチに関する研究機密指定受けている状態では、ロシアとのそれ以上共同研究は無理であったため、サンディア研究所はその機密指定解除DOE働きかけ、これが認められて、以後ロシアとの共同研究長く続けられまた、Zピンチに関する研究成果広く公表されることとなった

※この「サンディア研究所における初期の核融合研究 1960年頃~1995年頃」の解説は、「Zマシン」の解説の一部です。
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