サディ・カルノー暗殺事件、ドレフュス事件、露仏同盟
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「フランス第三共和政」の記事における「サディ・カルノー暗殺事件、ドレフュス事件、露仏同盟」の解説
詳細は「ドレフュス事件」および「露仏同盟」を参照 1894年6月24日にサディ・カルノー大統領がイタリア人アナーキストのサンテ=ジェロニモ・カゼリオ(フランス語版、英語版)に暗殺された(サディ・カルノー暗殺事件(フランス語版))。1894年9月にフランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人、アルフレド・ドレフュスがドイツへのスパイ容疑で逮捕されたが、これは冤罪事件であった。慌てた軍部は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下した。フランスは、1894年10月に露仏同盟締結にこぎつけたが、11月1日にアレクサンドル3世が崩御して、ニコライ2世が即位し、イギリス育ちのアレクサンドラと結婚した。フランスは、ビスマルク体制の外交的孤立から脱却し、ヨーロッパの軍事情勢は流動化していった。 1895年1月にフェリックス・フォールが大統領に就任すると、1896年にはパリにロシア皇帝ニコライ2世を迎え、1897年には答礼でロシアを訪問し、露仏同盟を内外にアピールした。一方、情報部や家族の尽力の結果、1896年にジョルジュ・ピカール(フランス語版、英語版)大佐が証拠のメモから、ハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐がドレフュス事件の真犯人であると分かった。しかし軍部は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、形式的な裁判でエステルアジを無罪とし釈放した。1897年、ジョルジュ・クレマンソーが新聞「オーロール(フランス語版、英語版)」紙を主幹し、ドレフュス擁護の論陣を展開。1898年1月18日、作家のエミール・ゾラによるフェリックス・フォール大統領宛ての『我弾劾す』("J'accuse") に始まる公開質問状が新聞『オーロール(フランス語版、英語版)』紙に掲載され、その中で軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が盛り上りを見せ始め、ドレフュス個人の事件から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開された。1898年5月の議会選挙(フランス語版、英語版)で、フォール大統領の進歩共和派(フランス語版、英語版)は63議席を失う大敗を喫した。8月30日にアンリ(フランス語版、英語版)大佐が証拠のねつ造を自白、翌8月31日に不審な形で自殺した。こうした騒ぎの中、1899年2月16日に現職のフォール大統領がMarguerite Steinheilとの密会中に不審な形で死亡した。 1899年7月18日のパリの新聞『ル・マタン(フランス語版、英語版)』紙で証拠のメモと真犯人エステルアジが発表された。9月9日の再審でもドレフュスは有罪となったが、エステルアジは召還すらされなかった。9月19日にエミール・ルーベ大統領の大統領特赦でドレフュスは釈放された。1902年4月27日の議会選挙(フランス語版、英語版)でジョルジュ・クレマンソーは上院議員として元老院入りした。1902年9月29日にエミール・ゾラも不審な形で死亡し、言論封殺を目的とする反対派による暗殺とも騒がれた。エステルアジは、1898年8月12日にロンドンへ亡命しており、1903年から1906年にかけて『ラ・リーブル・パロール』紙のイギリス特派員だった。 結局ドレフュスの無実が確定したのは1906年ことであった。この事件は軍の威信を傷つけ、軍部と保守派の力を大きく後退させ、その後のフランス軍の弱体化を招くひとつの大きな要因となったと考えられている。事件後のフランス軍は、植民地関連を除き単独での軍事的勝利を収めた経験を持たない。一方、ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく相対的安定を確保することができた。
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