コルモランとの戦闘と喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 10:12 UTC 版)
「シドニー (軽巡洋艦・2代)」の記事における「コルモランとの戦闘と喪失」の解説
1941年(昭和16年)1月11日、シドニーはアレクサンドリアを出発し、オーストラリアへの帰途についた。2月5日、シドニーはフリーマントルに戻り、その後はインド洋や東南アジア方面で船団護衛に従事する。枢軸国海軍はオーストラリア周辺海域でも活動し、前年12月上旬には太平洋のナウルに仮装巡洋艦2隻(オリオン、コメート)が出現して艦砲射撃をおこなっている(ナウルに対するドイツの攻撃)。このような通商破壊からシーレーンを守る必要もあった(オーストラリア周辺における枢軸国海軍の行動)。5月、シドニーは新艦長のジョセフ・バーネット(英語版)大佐を迎えた。11月19日、シドニーはオーストラリア大陸西部シャーク湾沖約170浬のインド洋で、オランダ船に偽装していたドイツ海軍 (Kriegsmarine) の仮装巡洋艦(通商破壊艦)コルモラン (Hilfskreuzer Kormoran) を発見した。 以下はコルモランのテオドール・デートメルス(英語版、ドイツ語版)艦長以下の証言による戦闘概況である(シドニーとコルモランの戦闘)。コルモランはパースの港口に機雷敷設に向かう途上であったが、シドニーからの誰何に対し時間を稼ぎながら、有利に攻撃を開始する機会をうかがっていた。コルモランからはシドニー艦上で偵察機の射出準備をしている様子が窺われたが、射出は行われなかった。シドニーが1~2kmの間隔を置いてコルモランの真横に並び、秘密の船舶コードを示すよう信号したとき、コルモランはオランダ商船旗を下ろしてドイツの戦闘旗を掲げ、同時に15cm砲や発射管を隠していたフラップを開き、対空砲座をせり上げ、戦端を開いた。その時シドニーの各砲はコルモランを指向していたが、総員配置の命令は出されていなかったらしく非番らしい乗員が甲板にたむろしていた。 攻撃開始後すぐに、コルモランの対空砲の砲弾がシドニーの艦橋や発射管周辺に炸裂し、また射撃指揮装置を破壊した。またコルモランの魚雷がシドニーの前部A・B両砲塔の間に命中しどちらも動かなくなった。コルモランの15cm砲はシドニーの各部に命中して火災が拡がり、やがて全火砲が沈黙した。最後にシドニーは魚雷を発射したがかわされ、衝突を試みたがこれもかわされ、激しい炎と煙を上げながらコルモランの視界外に去った。被弾炎上したコルモランも沈没し、ボート・救命筏などに退避した乗員の一部は自力でオーストラリアの西海岸に到着、ほぼ同時にシドニーの捜索が開始された。捜索に向かった連合軍側はドイツ艦の乗員を救助したのみであり、シドニーは破損した救命筏一艘だけを残し、バーネット艦長を含め645人の全乗員と共に姿を消した。コルモランでは397人中317人が、病院船ケンタウロス (AHS Centaur) や他国の船舶に救助されるか、自力で海岸に到着して捕虜となった。 シドニーの手がかりは、捜索活動中のオーストラリア海軍曳船ヒーロー (HMAS Heros) が発見した無人の救命艇、そして1942年(昭和17年)2月6日にクリスマス島に漂着した身元不明の遺体があった。シドニーと全乗員の喪失はオーストラリア海軍史上最大の悲劇であり、オーストラリアのほとんどの町から乗員が出ていたため、同国社会に大反響をもたらした。戦闘の模様を語るのがドイツ人の捕虜のみであり、なぜシドニーが不審船に用心を怠って先制攻撃で致命傷を受けるほど接近したかなどはドイツ人捕虜の説明では納得し難かった。オーストラリア社会では「ドイツ仮装巡洋艦が何か国際法に悖る手段を用い口封じにシドニーの生存者を皆殺しにした。」とか、「真珠湾攻撃を目前に控えた日本海軍の潜水艦が同盟国の仮装巡洋艦を掩護し、魚雷でシドニーを沈めた。」など、様々な説が広まった。ヒーローが回収した本艦の救命艇は、オーストラリア戦争記念館に展示されている。 2021年(令和3年)11月19日、クリスマス島に漂着した遺体が本艦乗組員トーマス・ウェルズビー・クラーク (Thomas Welsby Clark) であったことが公表された。
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