コピーライター時代
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1981年3月、らもは藤島克彦の紹介で広告代理店の株式会社日広エージェンシーに再就職。社長の宮前賢一は、藤島の関西学院大学時代の1年先輩に当たる人物で、卒業後も親交があった。宮前はらもの灘中高卒業という経歴に惹かれ、「カバン持ちにして連れ回したら優越感にひたれる」という理由で採用を決めた。 日広エージェンシーはその年に設立されたばかりで、宮前をふくめ、経理の女性とらもの3人しかいない会社であった。宮前はらもをほぼ毎日、夜の繁華街に連れ出して飲み歩かせ、業務に関しては「なんぼ失敗してもええぞ。全部責任はわしがとったる」と告げ、放任した。らもはそんな宮前から「仁義の切り方」を学んだという。らもは当初、得意先を回る営業を担当したが、やがて自発的に広告・テレビCM・新製品の制作企画を兼務するようになり、のちに「企画課長」の肩書を与えられた。 あまりにも仕事が暇だった(自分で営業をかけない限り仕事がなかった)ため、電柱から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病だ」と直感、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで一旦寛解したものの、依存を断ち切るために断薬し、症状を再発させているまた、在籍末期には離人症気味になり、東京・月島にあった支所(アパートの一室)にこもって仕事をおこなった。 灘高校時代の同級生、村上健が常務を務めていた(のちに代表取締役社長)、かねてつ食品(のちのカネテツデリカフーズ)をスポンサーに1982年、雑誌『宝島』に同社の広告シリーズとして『啓蒙かまぼこ新聞』を企画・制作。広告に不信感を持つ層をあえてターゲットとして、広告の構成としては異例だった投稿コーナーと漫画を通じ、スポンサー企業と読者=消費者が一緒になって広告上で遊ぶことを通じて、消費者に商品に対する関心を持たせるという独特の方法で、翌1983年開始の同社の広告シリーズ『微笑家族』(『プレイガイドジャーナル』→『ぴあ』掲載)とともに、注目を浴びる。らもは『啓蒙かまぼこ新聞』でTCC準新人賞を受賞した。 同年、テレビのあまりの下らなさに激怒したらもは、広告・CMのプレゼンとして書き溜めていた台本を「成仏させるため」にコント用に書き直した。このコント原稿はテレビ番組『どんぶり5656』として結実した。 1984年から朝日新聞大阪本社版日曜版「若い広場」で、独特のユーモアを交えた人生相談コーナー『明るい悩み相談室』連載が始まる。 焼きじゃがいも事件 同連載において「祖母から焼きじゃがいもに味噌をつけて食べると死ぬと言われたが事実か?」との投書に「焼きじゃがいもに味噌をつけて食べた大多数の者が高確率でいずれ死に至る」とこの投書を事実であると回答。「人間なのだから、焼きじゃがいもに味噌を付けたものを食べようが食べまいがいずれ死ぬのは当たり前」という意図での回答だったが、それを理解出来なかった読者から「好物なのに死ぬのか」「怖い」「冗談に決まっている」と不安と疑問の声が寄せられる。これらの投書にらもは「じゃがいもに味噌をつけて食べると確実に死ぬ。誰も避けられない(但しその時期には「個人差」がある)。」と火に油を注ぐ。朝日新聞社側が事態収束のため焼きじゃがいもに味噌をつけて食べるようらもに迫り、折れたらもが実際に食して騒動は沈静化する。 1986年6月には、知人の関係する舞台のあまりの下らなさに激怒して、「笑殺軍団リリパットアーミー」を、キッチュ(現・松尾貴史)、鮫肌文殊、若木え芙(現・わかぎゑふ)、ガンジー石原、ひさうちみちお、桂吉朝らと結成、脚本執筆のほか、自ら出演もこなした。
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