グラント大統領の宣誓証書
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「ウイスキー汚職事件」の記事における「グラント大統領の宣誓証書」の解説
ウイスキー・リングのスキャンダルは、ホワイトハウスの間近にも迫っていた。グラント大統領自身もリングに関わっており、流れ込んだ資金を再選された1872年の大統領選挙に使った、といった噂が出回っていた。グラントは、バブコックの名誉のみならず、自分の名誉も護らなければならなかった。既にグラントは、ブリストウやウィルソンが、「Sylph」と署名された電報など自ら決定的な証拠を示しても、バブコックが有罪だとは信じないと表明していた。バブコックはその署名について、大統領に「大きなトラブル (a great deal of trouble)」をもたらした女性のものだと示唆し、ウィルソンが、大統領のセックス・スキャンダルが明るみに出るのではないかと恐れる事を期待したが、ウィルソンはそんなこけおどしには乗らなかった。 国務長官ハミルトン・フィッシュの助言を受け、グラント大統領は公開の法廷での証言を避け、それに代えてホワイトハウスに招いた議会下院の法務代表の前で宣誓証書を作成した。グラントは史上初めて、またその後も現在までただ一人の、被告人側で証言した大統領となった。この歴史的な証言は、1876年2月12日に、かつてグラントが合衆国最高裁判所判事に任命した最高裁判所長官モリソン・ワイト(英語版)が指揮する形で行われた。グラント大統領の証言の一部は以下のようなものであった。以下で、イートンは原告側代理人 Lucien Eaton、クックは被告側代理人 William A. Cook のことである。 イートン:バブコック将軍の振る舞いにおいて、あるいはあなたへの発言において、彼がセントルイスないし他の場所におけるウイスキー・リングに何らかの関心なり関与を持っているとあなたに思わせることはありましたか? グラント大統領:全くありません。 イートン:バブコック将軍は、1875年4月23日頃に発信した「セントルイス、1875年4月23日、O・E・バブコック将軍、大統領官邸、ワシントンD.C.:マックに、コロラドのパーカーに会って、コミッショナーに電報を打つよう伝えてくれ。セントルイスの敵を潰せ。(St. Louis, April 23, 1875. Gen. O.E. Babcock, Executive Mansion, Washington, D.C. Tell Mack to see Parker of Colorado; & telegram to Commissioner. Crush out St. Louis enemies.)」という電文をあなたに見せましたか? クック:異議あり。(記録に残す) グラント大統領:私はそうした発信電文について、この疑惑に関する裁判が始まる以前に承知していた覚えは全くありません。裁判開始以降、私はバブコック将軍からこうしたものの大部分について説明を受けています。その中で発信電文の多くも見せられ、説明されたと思いますが、その文面のものには覚えがありません。 イートン:おそらくお気づきかと思いますが、将軍、ウイスキー・リングは、政治的な運動を続ける資金を必要としているため、その大元を頑強に隠そうとしています。あなたはバブコック将軍ないし他の誰かから、直接的あるいは間接的ないかなる形であれ、不適正な方法で集められた政治的目的の資金提供を示唆されたことがありますか? クック:異議あり。(記録に残す) グラント大統領:そのようなことは全くありません。その種の示唆については、裁判が初めってから新聞で知りましたが、それ以前には承知していませんでした。 イートン:では、お伺いしますが、検察当局の担当者たちが、あなたが容認した何らかの手段による資金提供に関する、あらゆるほのめかしを退けてきたことは、完全に正しいことではなかったのでしょうか? クック:異議あり。(記録に残す) グラント大統領:私は、彼らが何らかのほのめかしを退けてきたということに気づいていませんでした。 1876年2月17日、やはりグラント大統領によって任命された合衆国巡回裁判所判事、ジョン・F・ディロンは、クックによる異議申し立てを全て却下し、宣誓証書の質疑は法廷において証拠として有効であると宣言した。グラントは、映像記憶の持ち主として知られていたが、バブコックに関する事柄を思い出そうとすると、数多くの彼らしくない誤りを犯した。宣誓証書という戦略は功を奏し、ウイスキー・リング追及の矛先がグラントに向けられることはなくなった。セントルイスで行われていたバブコックの裁判の中で、宣誓証書は陪審団に対して読み上げられた。その裁判で、バブコックは無罪放免となった。裁判後、グラントはバブコックから距離を置いた。放免後のバブコックは、いったんはオーバルオフィス外のグラントの私的秘書に復職した。しかし、世論の批判やハミルトン・フィッシュの反対もあり、バブコックは私的秘書を解任され、1871年に既にグラントから与えられていた別の仕事である、公共施設の土地・建物に関する監督技師 (superintending engineer of public buildings and grounds) としての仕事に専念するようになった。 グラントの伝記を書いてピューリッツァー賞伝記部門を受賞したウィリアム・S・マクフィーリー(英語版)は、グラントがバブコックの有罪を知りながら宣誓証書で偽証したのだと述べている。マクフィーリーによれば、バブコックに不利な「証拠は反論の余地がないもの」であり、グラントはそれを知っていたという。マクフィーリーはまた、ジョン・マクドナルドも、グラントはウイスキー・リングの存在を承知しており、自分もバブコックを護るために偽証したと述べていたとも指摘している。これに対して、グラントについて研究している歴史学者ジーン・エドワード・スミス(英語版)はこれに対して、バブコックに不利な証拠は状況証拠であり、セントルイスの陪審団がバブコックを放免したのは「十分な立証が欠けていたから」であったと反論している。グラントを知る友人たちは、大統領は「真実の人 (a truthful man)」であり、「嘘をつくことなど彼にはできなかった (impossible for him to lie)」としていた。しかし、グラントの人気は、この証言の結果としてバブコックが裁判で放免されて以降、全国的に明らかに低落した。グラントの政敵たちは、この宣誓証書を公職への踏み台にした。『New-York Tribune』紙は、ウイスキー・リングのスキャンダルは「ホワイトハウスの玄関まで行ったが戻ってきた」と報じた。しかし、友人であったバブコックのためになされたグラント証言の全国的な不人気は、グラントが3期目に向けて大統領候補として指名される可能性を台無しにした。
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