グラント対リー (1864年-1865年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「グラント対リー (1864年-1865年)」の解説
詳細は「オーバーランド方面作戦」、「バミューダ・ハンドレッド方面作戦」、および「リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦」を参照 1864年3月、ユリシーズ・グラントは中将に昇進し北軍全体の指揮を任せられた。グラントは多方面から南軍に圧力をかける協調戦略を考案したが、これは開戦当初からリンカーンが将軍達に急かしていたことに似ていた。グラントは西部戦線の全軍指揮をウィリアム・シャーマン少将に委ね、自分は東部に移動して作戦本部をバージニアのポトマック軍(指揮官はミードのままであった)に置き、そこから軍隊を動かしてリー軍との決戦に臨む考えであった。グラントの目標の2つ目はリッチモンドを占領することであったが、リー軍を倒せばリッチモンドは自動的に手に入るものと考えていた。その協調戦略では、グラントとミードが北からリー軍を攻め、ベンジャミン・バトラーは南東からリッチモンドに迫る、フランツ・シーゲルはシェナンドー渓谷を支配する、シャーマンはジョージア州に侵攻しジョンストン軍を破ってアトランタを占領する、ジョージ・クルークとウィリアム・アバレルはウエストバージニアの鉄道補給戦に対して作戦を展開する、ナサニエル・バンクスはアラバマ州モービルを占領する、というものであった。 これらの戦略の大半は失敗した。というのもグラントに付けられた将軍達は軍事的な理由というよりも政治的な色彩が強かったからである。バトラーのジェームズ軍はバミューダ・ハンドレッド方面作戦を進めたが、劣勢なボーリガード軍に対してリッチモンドを目前に泥沼化してしまった。シーゲルは5月のニューマーケットの戦いで完璧に敗れた。シーゲルは6月にもハーパーズ・フェリーでジュバル・アーリー軍と戦ったが、その後直ぐに「攻撃性の欠如」を理由にデイビッド・ハンターに挿げ替えられてしまった。バンクスはレッド川方面作戦に気を取られモービルに向かうことができなかった。しかし、クルークとアバレルはバージニアとテネシーを結ぶ最後の鉄道を遮断し、シャーマンのアトランタ方面作戦は秋まで引き摺ったものの成功した。
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