グエン・フエ攻勢
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「ラインバッカー作戦」の記事における「グエン・フエ攻勢」の解説
「イースター攻勢」を参照 1972年3月30日正午、3万名の北ベトナム軍が戦車隊および砲兵隊の支援のもと、ベトナムを二分する軍事境界線を超え南下を始めた。三個師団の戦力は、体制の整っていないベトナム共和国軍(南ベトナム軍)その同盟軍たるアメリカ軍を捕捉した。北ベトナム軍は、南ベトナム軍第3師団の防御区域に打撃を与え、大混乱に陥れた。このため、南ベトナム軍は後退し両者の間でドンハ(東河)とカムロ(甘露)の二つの橋への追撃戦がおこなわれた。 4月4日、南ベトナム軍は、北ベトナム軍を阻止する防衛線をかろうじて形成したが、これも一時的な休息に過ぎなかった。戦車や重砲を大規模に用いた在来戦型の攻勢は連合軍を北方に釘付けにしたが、これは春におこなわれた3つの作戦のまだひとつめに過ぎなかった。4月5日、3個師団の諸兵科連合部隊に編制された北ベトナム軍2万名がカンボジアの聖域から侵攻、サイゴンの北方にあるビンロン(平隆)に攻撃をかけた。北ベトナム軍の諸兵科連合部隊は迅速にロックニン(禄寧)を占拠し、アンロック(ベトナム語版)(安禄)を包囲して首都に通じる道路を切断した。12日には北ベトナム軍がまたしても攻勢を仕掛け、ラオス東部から侵入し、中央高地のコントゥム省ダックトー県周辺の国境前哨陣地を占拠した。北ベトナム軍はコントゥム(崑嵩)に向かい東進を続ける。ハノイの北ベトナム指導部は、季節風の到来と同時期に攻勢を開始しており、このため恒久的な雨と雲の覆いが航空支援を困難にしていた。 当初、攻勢に対するアメリカ軍の反応は意欲を欠き、かつ混乱していた。国防省はほとんど警戒をしておらず、大使や陸軍参謀総長のクレイトン・エイブラムス大将は国内にいなかった。リチャード・ニクソン大統領の最初の反応はB-52 ストラトフォートレス爆撃機によるハノイおよび港湾都市ハイフォンへの三日間の爆撃の検討というのものであった。ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官はニクソン大統領に再考するよう説得した。というのも、5月に妥結されたソ連との戦略兵器制限交渉(SALT I)の成立を危うくすることを望まなかったためである。この計画への障害は他にもあり、エイブラムス将軍は南ベトナム軍の防戦支援に、全天候型の爆撃機を活用しようと考えていた。 ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は、統合参謀本部より提示されたプランを検討したが、この計画は想像力に乏しく、積極性も欠いたものであった。4月4日、ニクソン大統領は、北ベトナムへの報復としてDMZ周辺の爆撃を承認したが、北緯18度までに制限されていた。ニクソン大統領は来たるレオニード・ブレジネフ書記長との会談を考慮し、南ベトナム軍の前面崩壊を防ぎ、アメリカの威信を守るべく、戦力の量的増加のリスクを負うことを決断した。 アメリカ軍は続々と撤退しつつあり、ベトナム戦争のベトナム化政策が実施に移されていたため、攻勢時点で南ベトナムには1万人以下のアメリカ軍しか残っておらず、しかもその大多数は半年以内にベトナムを去る予定であった。東南アジアに駐留する戦闘用航空機の数は、ピークだった1968年から1969年の半分を下回っていた。1972年の初頭で、F-4戦闘機3個飛行隊およびA-37攻撃機1個飛行隊の合計76機が南ベトナムに駐留していた。その他、114機の戦闘爆撃機がタイの基地に駐留。83機のB-52がタイのウタパオ国際空港とグアムのアンダーセン空軍基地に駐留し、トンキン湾に遊弋する第77任務部隊には4隻の航空母艦が配備されており、常時2隻が作戦可能であった。これらの空母艦載機はおよそ140機に達した。
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