アメリカ軍の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:50 UTC 版)
「ケトルクリークの戦い」の記事における「アメリカ軍の反応」の解説
南部における大陸軍の指揮官ベンジャミン・リンカーン少将はチャールストンを本拠にしており、サバンナの陥落については適切に対処することができていなかった。大陸軍の持つ資源は限られており(人員も資金も不足していた)、サウスカロライナの民兵隊約1,400名を立ち上げることができたが、自分達の国の外で行動することを命令する権限は無かった。1月30日、ジョン・アッシュ将軍の率いるノースカロライナの民兵隊1,100名が到着して補強された。リンカーンはオーガスタに近いサバンナ川のサウスカロライナ側にいるウィリアムソンの部隊に合流させるべく、この部隊を即座に派遣した。 サバンナ川のジョージア側岸にあるオーガスタ地域は、ダニエル・マクガース大佐の率いるロイヤリスト部隊に支配され、一方サウスカロライナ側はジョン・ドゥーリー大佐の指揮するジョージア愛国者民兵隊に支配されていた。アンドリュー・ピケンズ大佐の指揮するサウスカロライナ民兵隊約250名がこの地域に到着すると、ピケンズとドゥーリーが部隊を合わせてジョージアへの攻勢を採ることになり、ピケンズが全軍指揮を執ることになった。その後、ノースカロライナの軽装騎兵数個中隊も加わることになった。 2月10日、ピケンズとドゥーリーはオーガスタ南東のイギリス軍キャンプを攻撃するためにサバンナ川を渡った。しかしそのキャンプには部隊が居らず、偵察に出ていることが分かった。ピケンズはイギリス軍がカーの砦と呼ばれる防御柵を施した前線基地に向かったのではないかと疑い、直ぐにそこに部隊を派遣すると共に、主力はイギリス軍の追跡を始めた。イギリス軍は実際に砦にいたが、その馬や手荷物を柵の外に放棄することを強いられた。ピケンズは砦を包囲したが、ボイドの700ないし800名のロイヤリスト部隊がサウスカロライナのナインティシックス地区を通過してジョージアに向かっていることを知った。ピケンズは躊躇いながらも包囲を解き、ボイド隊を抑えるために移動した。 ピケンズはボイド隊が渡河使用とする可能性のあるブロード川河口近くで強力な陣地を張った。しかし、当時800名に膨れ上がっていたボイド隊は北に迂回する道を選んだ。ボイドは先ずチェロキー浅瀬を試したが、8人の愛国者民兵が小さな旋回砲を持って塹壕に入り、ボイド隊の接近を阻止した。ボイドは北に約5マイル (8 km) 移動し、そこで川を渡ると、ジョージア側でボイド隊の動きを追跡していた愛国者の小部隊と小競り合いになった。ボイドはこの会戦で100名を失った(戦死、負傷あるいは脱走)と報告した。 ピケンズがボイド隊が川を渡ったと知ったときに、自隊は川を渡ってサウスカロライナに入り、ボイド隊の動きを阻止しようとしていた。ピケンズはボイド隊の所在を知ると即座にジョージア側に戻った。2月14日、ピケンズ隊はボイド隊に追いつき、ケトル・クリーク近くで部隊を止めた。そこはマクガースのロイヤリスト・キャンプから数マイルしか離れていなかった。
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