エルヴィス亡き後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:22 UTC 版)
「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「エルヴィス亡き後」の解説
プレスリーの死後、パーカーは Factors Etc. Inc とプレスリー関係の商品のライセンス業務提携を進め、プレスリーの残した資産(エステート)を支える安定した収入を確保した。後に明らかになったところによると、プレスリーはこの会社の22%、パーカーは56%を所有し、残りの22%は様々な取引関係者が所有していた。パーカーとプレスリーの間に結ばれた、不適切な助言に基づいた合意のために、1973年以前のすべての録音のロイヤリティはRCAが独占することとなり、エステートはもっぱら Factors Etc. Inc からの収入に依存せざるを得なくなった。しかし、パーカーは依然としてプレスリーのもとに入る収入の50%を得ており、税金を支払った後にエステートの維持のために残される金額は年間100万ドル未満しかなかった。 1979年1月、プレスリーが作詞者ないし作曲者として名を連ねた曲のロイヤリティがプレスリーに支払われていなかったことが明らかになったが、これはパーカーが、愚かにも、米国作曲家作詞家出版者協会 (ASCAP) とも後発のBMIとも契約はしないほうがよい、とプレスリーに助言していたためであった。この分野の専門家たちは、当時これによってプレスリーが逸失した金額は何百万ドルにも上るだろうと推察したが、パーカーにとっても何百万ドルの損失になっていたはずである。 1980年当時、エステートの維持には年間50万ドルほどが必要だと見積もられていた。プリシラと遺産管理にあたるトラストは、引き続きパーカーがプレスリー関係の事業に関わることを認め、それが認められるよう法廷で訴えた 。しかし、ジョセフ・エヴァンス判事 (Judge Joseph Evans) は、リサ・マリー・プレスリーが未成年であったことを踏まえ、法廷弁護士ブランチャード・E・トゥアル (Blanchard E. Tual) を指名して、パーカーのマネジメントについての調査を命じた。以前、リサ・マリーの訴訟後見人 (guardian ad litem) に指名されたこともあったトゥアルは、パーカーがプレスリーのマネジメントにあたった全期間について精査し、まずパーカーの取り分であった50%という数字が、業界の平均的な水準である15-20%に比べて法外なものであることを確認した。トゥアルは、プレスリー存命中のパーカーの仕事ぶりについて、特に1973年に過去のロイヤリティに関する諸権利をRCAへ540万ドルで売却したことを、「非倫理的 (unethical)」で、不手際な対処だったと論じた。その後、2回目の、より詳細な調査によって、すべての収入は直接にはパーカーに入らず、全額がいったんトラストに入ることを、トゥアルは発見した。この時点までに、アメリカ合衆国内国歳入庁 (IRS) は1500万ドル近くの支払いを求めており、エステートは破産の危機に瀕していた。パーカーがやっていたことの真実が明らかにされたのである。 1981年8月14日、エヴァンス判事は、 エルヴィス・プレスリー・エンタープライジズ(英語版)に対し、不適切な管理 (mismanagement) をしていたパーカーを提訴するよう指示した。これに対し、パーカーは反訴した。パーカーに対する訴訟は、1983年に法廷外での示談となり、エステートはパーカーに200万ドルを支払い、その代わりに5年間にわたってプレスリー関連の事業から一切手を引くこととなった。また、パーカーは、所有しているプレスリーの音源や映像の諸権利を、すべて手放すことも命じられた。 プレスリーの没後、パーカーはヒルトン・ホテルズの「コンサルタント」として働いていたが、一部からは、プレスリーがヒルトンでショーをしている間、カジノのギャンブルで 負け込んだ負債を働いて返しているのだとも見られていた。この立場のおかげで、パーカーはプレスリーが存命だったころから使っていたのと同じ、4階のスイートルームを使い続けていたが、1984年にはギャンブルの負債が再び膨らんだとされ、パーカーはそこから退去させられた。しかし、表面上はパーカーとヒルトンの関係は以前と変わらず良好で、パーカーは、ヒルトンによるプレスリーの死去10周年の記念イベントを手助けした。 プレスリー・エステートとの紛争にも関わらず、パーカーは高名な顧客たちを失うことはなかった。パーカーは、プレスリーの死後に開かれた様々な追悼行事に出席し、1993年にアメリカ合衆国郵便公社がロックンロールの王様(プレスリー)を讃えて記念切手を発行した際にも姿を見せた。パーカーはエステートとの関係も修復し、プリシラの招きに応じて、メンフィスでの特別な儀式や行事にも出席した。しかし、時には、プレスリー家の人々の感情を逆撫でするような、エステートの決定に逆らうような発言もした。1994年、リサ・マリーがマイケル・ジャクソンと結婚した後、パーカーはプレスリーが生きていたらこの結婚を認めないだろうと発言し、1993年には、プレスリーが伝説的存在であり続け、顕著に熱狂的な人気が利益を生んでいることに腹を立てたパーカーは、「私がエルヴィスから搾り取ったものなど、彼がいま搾り取られているものには及ばないだろう (I don't think I exploited Elvis as much as he's being exploited today)」と述べた。 1994年、カリフォルニア州パームスプリングスのパームスプリング・ウォーク・オブ・スターズ(英語版)において、ゴールデン・パーム・スターがパーカーに与えられた。
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