エルサレム王、キプロス王およびアルメニア王
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「リュジニャン家」の記事における「エルサレム王、キプロス王およびアルメニア王」の解説
ジャック1世の息子ジャニュは、シャルロット・ド・ブルボンと結婚し、この結婚は「ジャニュの治世の特徴となる、リュジニャン朝宮廷におけるフランス文化の回復の礎」といわれた。シャルロットは1422年1月15日にペストで死去し、ニコシアの聖ドミニク王立修道院に葬られた。シャルロットの子孫として、キプロス女王シャルロット、ナバラ女王ジャンヌ3世、フランス王シャルル8世、フランソワ1世、アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、アンリ4世およびその後のブルボン朝フランス王、アンヌ・ド・フランス、スコットランド女王メアリーなどがいる。また、シャルロットは現イギリス王室の先祖の1人でもある。 ジャニュ王はジェノヴァに占領されたファマグスタの奪還を試みたが、陰謀によって阻止された。1403年、ジェノヴァの総督ル・メングルはジャニュの代理人ジョルジオ・ビッリと会談し、ファマグスタはジェノヴァの支配下にとどまるという合意を決め、この件は終わった。後に、ジャニュは攻撃のための兵や兵器を集めるためにキプロス人に税を課し、3年間ファマグスタを包囲したが、海と街をつなぐ手段があったため無駄に終わった。1406年、包囲は終了しジェノヴァはリマソールを占領しようとしたが、敗北した。 2年後、キプロスは疫病に見舞われた。同時に、イナゴが大量に発生し、不作をもたらした。1419年から1420年にかけて新しい疫病が発生し、それによりジャニュの2度目の王妃であったシャルロットが1422年1月15日に死去した。王は王妃の死に動揺したため、王妃の遺体を王に見せないようにするため、葬式が行われた宮殿から運び出された。 一方、キプロスは海賊や野心家に対する運動の恒久的基地であり続けたため、キプロスの沿岸周辺への攻撃の後、ジャニュはエジプトのスルタンの代理人を通してスルタンとの話し合いを繰り返し行った。ジャニュはこの攻撃を止めることができず、ムスリムにキプロスを攻撃する口実を与えてしまった。キプロス貴族らはこの攻撃に参加した。 エジプトのスルタンであるアシュラフ・バルスバーイは数回にわたりキプロスに軍を送った。1424年頃に小隊がリマソールを攻撃し、1425年にはエジプト軍はファマグスタを攻撃し、ラルナカをその付近の地域であるキティ(Kiti)、ドロモラクシア(Dromolaxia)、ケリア(Kellia)、アラディプ(Aradippou)およびAgrinou とともに略奪を行った。ラルナカの後、エジプト軍はリマソールに移動し、そこでもコロッシ城を含めて略奪を行った。 1426年夏、マムルークはキプロスに対し大規模な攻撃を開始した。Tangriver MohamedおよびInal el Kakimiに率いられ、マムルーク軍は3,000人以上で、マムルーク、トルコ人、アラビア人からなり、オゥディムー近くに180隻の船でキプロスに到着した。リマソールは再び占領された。ジャニュは軍を集め、ニコシアからリマソールに移動した。ジャニュはヨーロッパに援軍を求めたが無駄であった。ジェノヴァはジャニュの敵であり、ヴェネツィアおよび他の国はスルタンとの貿易関係を壊しにわざわざ来ようとはしなかったのである。 マムルークとのヒロキティアの戦い(1426年7月7日)の後、ジャニュ王はエジプト軍に捕われの身になった。ジャニュは10か月後カイロに人質として送られた。ジャニュが捕われている間、弟ニコシア大司教ユーグがキプロスの統治を担った。 マムルークは勝利の後、ラルナカとキプロスの首都ニコシアで略奪を行った。王族はキレニアの要塞に撤退し、救出された。マムルーク軍はキプロスを去る前に大規模な略奪を行った。 この災難は、以前の攻撃、ジャニュのジェノヴァに対する軍事行動、疫病およびイナゴの大量発生とともに、ひどい貧困の中生活していたキプロスの農奴の反乱を招いた。キプロスの革命の指導者はアレクシスと呼ばれる人物で、レフコニコで王位を宣言した。この革命は大規模なもので、民衆の支援を得ていた。民衆はキプロス各地で自分たちの指導者を選び出していた。 一方、ジャニュはカイロで屈辱を与えられていた。エジプト軍はジャニュを捕らえ、鎖で縛り、ロバに乗せ、スルタンの前に引き出されていた。その後ジャニュは跪き、9回にわたり地面にひれ伏すことを強要させられた。ヨーロッパで身代金が集められ、その仲介によりジャニュの解放がなされた。キプロスも5,000の公爵領の収入から毎年スルタンに税を支払わなくてはならなくなった。この税はキプロスでフランク人の支配が終わったのちも支払い続けられた。ジャニュとともに、何人かの人質が家族の集めた身代金により自由の身となった。他の者は人質のまま、奴隷として売られた。 ジャニュがキプロスで捕われた間、貴族や王族はアレクシスの反乱に対処し、ジャニュの解放に向け活動していた。ヨーロッパからの支援もあり、反乱は10か月後に鎮圧された。反乱の指導者らは捕まり拷問を受けたのち、ニコシアで1427年5月12日に処刑されたが、この日はジャニュ王がカイロからパフォスに到着した日であった。ジャニュは1432年に死去し、息子ジャン2世が跡を継いだ。 ジャンはモンフェッラート侯女アマデア・パレオロギナ(英語版)と結婚したが、アマデアは1440年に死去した。 その後、ジャンは東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの孫にあたるエレニ・パレオロギナと結婚した。2人の間には2人の娘が生まれ、長女のシャルロットがキプロス王位を継承することとなった。また、ジャンは愛妾マリエット・ド・パトラとの間に庶子であるジャックをもうけていた。ジャックは16歳でニコシア大司教となったが、宮廷の侍従を殺害した後に職を剥奪された。ジャンは最終的にジャックを赦し、ジャックを自らの後継者としようとしていたとみられるが、それが実現する前にジャンは1458年に死去し、娘シャルロットが王位を継承した。 シャルロットの治世は困難を抱え、短命に終わった。シャルロットは自身と ルイ・ド・サヴォワとの結婚によりジェノヴァとの同盟を結ぶことに成功したものの、やがて無駄であることが分かった。異母兄ジャックはエジプトのスルタンアシュラフ・イーナールと同盟を結んだ。ジャックらの連合軍はファマグスタを再びリュジニャン家に取り戻し、連合軍の封鎖によりシャルロットは3年もの間キレニアの城にとどまることとなった。1463年、シャルロットとルイはキプロスからローマに亡命し、ローマで教皇ピウス2世の歓迎を受けた。 ジャックは王位に就き、ヴェネツィアと同盟を結ぶため1468年にカタリーナ・コルナーロと結婚した。1472年、カタリーナはキプロスに到着し、その数か月後ジャックは謎の死を遂げた。2人の間の息子ジャック4世は1歳で死去し、リュジニャン王家は断絶した。
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