エルサレム王、キプロス王およびアルメニア王とは? わかりやすく解説

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エルサレム王、キプロス王およびアルメニア王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:42 UTC 版)

リュジニャン家」の記事における「エルサレム王、キプロス王およびアルメニア王」の解説

ジャック1世息子ジャニュは、シャルロット・ド・ブルボン結婚し、この結婚は「ジャニュの治世特徴となる、リュジニャン宮廷におけるフランス文化回復の礎」といわれた。シャルロット1422年1月15日ペスト死去しニコシアの聖ドミニク王立修道院葬られた。シャルロットの子孫として、キプロス女王シャルロットナバラ女王ジャンヌ3世フランス王シャルル8世フランソワ1世アンリ2世フランソワ2世シャルル9世アンリ3世アンリ4世およびその後ブルボン朝フランス王アンヌ・ド・フランススコットランド女王メアリーなどがいる。また、シャルロットは現イギリス王室先祖1人でもある。 ジャニュ王はジェノヴァ占領されファマグスタ奪還試みたが、陰謀によって阻止された。1403年ジェノヴァ総督ル・メングルはジャニュの代理人ジョルジオ・ビッリと会談しファマグスタジェノヴァ支配下にとどまるという合意決め、この件は終わった。後に、ジャニュは攻撃のための兵や兵器集めるためにキプロス人に税を課し3年ファマグスタ包囲したが、海と街をつなぐ手段があったため無駄に終わった1406年包囲終了しジェノヴァリマソール占領しようとしたが、敗北した2年後キプロス疫病見舞われた。同時にイナゴ大量に発生し不作もたらした1419年から1420年にかけて新し疫病発生し、それによりジャニュの2度目王妃であったシャルロット1422年1月15日死去した。王は王妃死に動揺したため、王妃遺体を王に見せないようにするため、葬式が行われた宮殿から運び出された。 一方キプロス海賊野心家対す運動の恒久的基地であり続けたため、キプロス沿岸周辺への攻撃の後、ジャニュはエジプトスルタン代理人通してスルタンとの話し合い繰り返し行った。ジャニュはこの攻撃止めることができず、ムスリムキプロス攻撃する口実与えてしまった。キプロス貴族らはこの攻撃参加したエジプトスルタンであるアシュラフ・バルスバーイ数回にわたりキプロスに軍を送った1424年頃に小隊リマソール攻撃し1425年にはエジプト軍ファマグスタ攻撃しラルナカをその付近地域であるキティ(Kiti)、ドロモラクシア(Dromolaxia)、ケリア(Kellia)、アラディプ(Aradippou)およびAgrinou とともに略奪行ったラルナカの後、エジプト軍リマソール移動し、そこでもコロッシ城含めて略奪行った1426年夏、マムルークキプロス対し大規模な攻撃開始した。Tangriver MohamedおよびInal el Kakimiに率いられマムルーク軍は3,000人以上でマムルークトルコ人アラビア人からなり、オゥディムー近くに180隻の船でキプロス到着したリマソールは再び占領された。ジャニュは軍を集めニコシアからリマソール移動した。ジャニュはヨーロッパ援軍求めたが無駄であったジェノヴァはジャニュの敵であり、ヴェネツィアおよび他の国スルタンとの貿易関係壊しにわざわざ来ようとはしなかったのであるマムルークとのヒロキティア戦い1426年7月7日)の後、ジャニュ王はエジプト軍捕われの身になった。ジャニュは10か月カイロ人質として送られた。ジャニュが捕われている間、弟ニコシア大司教ユーグキプロス統治担ったマムルーク勝利の後、ラルナカキプロス首都ニコシア略奪行った王族キレニア要塞撤退し救出された。マムルーク軍はキプロスを去る前に大規模な略奪行った。 この災難は、以前攻撃、ジャニュのジェノヴァ対す軍事行動疫病およびイナゴ大量発生とともに、ひどい貧困中生活していたキプロス農奴反乱招いたキプロス革命指導者アレクシス呼ばれる人物で、レフコニコで王位宣言した。この革命大規模なもので、民衆支援得ていた。民衆キプロス各地自分たちの指導者選び出していた。 一方、ジャニュはカイロ屈辱与えられていた。エジプト軍はジャニュを捕らえ、鎖で縛りロバ乗せスルタン前に引き出されていた。その後ジャニュは跪き、9回にわたり地面ひれ伏すことを強要させられた。ヨーロッパで身代金集められ、その仲介によりジャニュの解放なされたキプロスも5,000公爵領収入から毎年スルタンに税を支払なくてはならなくなった。この税はキプロスフランク人支配終わったのちも支払い続けられた。ジャニュとともに何人かの人質家族集めた身代金により自由の身となった。他の者は人質のまま、奴隷として売られた。 ジャニュがキプロス捕われた間、貴族王族アレクシス反乱対処し、ジャニュの解放に向け活動していた。ヨーロッパからの支援もあり、反乱10か月後に鎮圧された。反乱指導者らは捕まり拷問受けたのち、ニコシア1427年5月12日処刑されたが、この日はジャニュ王がカイロからパフォス到着したであった。ジャニュは1432年死去し息子ジャン2世が跡を継いだジャンモンフェッラート侯女アマデア・パレオロギナ(英語版)と結婚したが、アマデア1440年死去したその後ジャン東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの孫にあたるエレニ・パレオロギナ結婚した2人の間には2人の娘が生まれ長女シャルロットキプロス王位を継承することとなったまた、ジャン愛妾マリエット・ド・パトラとの間に庶子であるジャックもうけていた。ジャック16歳ニコシア大司教となったが、宮廷侍従殺害した後に職を剥奪された。ジャン最終的にジャック赦しジャックを自らの後継者としようとしていたとみられるが、それが実現する前にジャン1458年死去し、娘シャルロット王位継承したシャルロット治世は困難を抱え短命に終わったシャルロット自身ルイ・ド・サヴォワとの結婚によりジェノヴァとの同盟を結ぶことに成功したものの、やがて無駄であることが分かった異母兄ジャックエジプトのスルタンアシュラフ・イーナールと同盟結んだジャックらの連合軍ファマグスタを再びリュジニャン家取り戻し連合軍封鎖によりシャルロット3年もの間キレニアの城にとどまることとなった1463年シャルロットルイキプロスからローマ亡命しローマで教皇ピウス2世歓迎受けたジャック王位に就きヴェネツィア同盟を結ぶため1468年カタリーナ・コルナーロ結婚した1472年カタリーナキプロス到着し、その数か月ジャック謎の死遂げた2人の間の息子ジャック4世1歳死去しリュジニャン王家断絶した

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