アメリカ大統領選への出馬
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「ハワード・ディーン」の記事における「アメリカ大統領選への出馬」の解説
2002年にディーンは、2004年の民主党大統領予備選挙への出馬を決断した。1994年から1995年にかけて全米知事協議会の議長を務めたものの、バーモント州というニューイングランドの小さな州の知事であったディーンは全国的にはまったく無名であった。そのため当初は泡沫候補として扱われていた。彼が当初掲げていた政策も州知事時代の中道的なものを引き継いだものだった。 だが、イラク問題、イラク戦争に関しては懐疑的な姿勢を示し、イラク戦争への反対を表明すると反戦候補としてにわかに注目を集め、2003年秋までに各種世論調査でトップに立ち、一躍最有力候補となった。このころから彼はバーモント州知事時代の中道派としての姿勢を転換し、外交政策ばかりでなく、経済政策や社会保障などあらゆる政策でリベラルな主張を行い始めた。NAFTAに賛成した自由貿易論者であったが、自由貿易に懐疑的な姿勢を示すようになったことや、社会保障の改革プログラムに賛成したにもかかわらず、大統領候補者としては改革に反対し、社会保障の拡充を主張したことはその例である。ちなみに本人は候補者同士で行われた討論会で社会保障改革に賛成したことを否定したが、一般に改革への賛成は事実であるとされている。 ディーンはまたポピュリスト的な選挙戦術を取った。ブッシュ政権の政策を、イラク問題を中心にことごとく非難し「ブッシュ大統領が何か政策を掲げたらその反対の所に国民の利益があるんだ」と公言してはばからなかった。更に、民主党の主流派は共和党寄りの姿勢をとっていると批判して民主党は独自の政策をよりはっきりと打ち出すべきと主張した。その非難の調子は直截で舌鋒鋭いものであった。これは、9・11テロ以降の愛国ムードの中で党派対立を控えることを余儀なくされていた民主党支持者を奮い立たせた。 同時にインターネット、特にウェブログ(ブログ)を活用し、労働組合や企業などの大口の献金にあまり頼らず、様々な個人から選挙資金を調達した。ディーンのインターネットの活用はかつてそれ程注目されていなかったブログに焦点を当て、ブログの普及に大いに貢献したといえる。こうして、ディーンの選挙キャンペーンは草の根の支持に基づくものとなり、これが彼にポピュリスト的なイメージを与えた。草の根の支持を中心とする資金調達とインターネットの有効活用という手法は、2008年の大統領選挙、予備選挙におけるバラク・オバマの選挙戦にも受け継がれた。 一方で、彼の直截な発言は時に失言や事実誤認を生んだ。「南軍旗をトラックに掲げているような連中のための候補者になりたい」と言い、南部の貧しい白人層にアピールしたいと語ったことはしかし、南北戦争時のアメリカ連合国、奴隷制及び人種差別主義の象徴ともいえる南軍旗を持ち出したことで非難を浴びた。 ディーンのこうしたリベラルな主張、直截な発言は極端なリベラル派というイメージを与え、共和党側はこれを利用した。一方で他の左派の候補、民主党のデニス・クシニッチや無所属のラルフ・ネーダーはディーンの知事時代の実績を引き合いに出し、ディーンは経済政策に関して保守的で、社会政策に関してリベラル(または穏健)な「ロックフェラー・リパブリカン」であるとレッテルを貼った。 しかしながらディーンは、一連の候補者指名争いのスタートであるアイオワ州党員集会で、ジョン・ケリー上院議員、ジョン・エドワーズ上院議員に次ぐ第3位という予想外の結果に終わった。さらにこの敗北を受けての支持者向けのスピーチで、残された州名を連呼して「負けないぞ、ワシントンを取り戻すぞ、ヤー!」と興奮気味に絶叫し、この様子がメディアで繰り返し取りあげられたため、冷静さを欠く大人気ない人物と受け止められ、「ディーン旋風」は急激に失速した。続くニューハンプシャー州予備選では、直前の世論調査までトップの支持を得ていたが、ここでもケリーに敗れた。リベラルな伝統を持つウィスコンシン州の予備選で巻き返しを図ったが、ここでも直前の予想を大きく下回る3位に終わり、選挙戦から撤退。ケリー支持を表明した。
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