ふるさと・中間の創造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 00:10 UTC 版)
通算6期23年の長期にわたって中間市(町)長を務めた添田市長が1982年(昭和57年)8月に急死したことを受けて9月に市長選挙が行われ、保守系で文化人の木曽寿一が第4代中間市長となり、前市長が進めていた百貨店の誘致計画も継承することになった。 添田市長時代に誘致されたダイエー中間店に隣接する広大な市有地については、地元商店組合連合会が中心となって結成した「中間中央商業開発協同組合」と旧地権者により設立された出資会社「グリーンプラザ開発」に対して1977年(昭和52年)に払い下げられていたが、1983年(昭和58年)2月にダイエーの副社長とオ・プランタン・ジャポン(ダイエーとフランスの百貨店プランタンの合弁会社)の開発担当部長らが訪れ、高級百貨店プランタンの進出を突如発表した。出店計画としては、核となる百貨店と連絡通路で結ばれた地元専門店ビル、レストランなどを備えた高層ホテルなどの建設が計画されていた。 ところが、オ・プランタン・ジャポンの業績が想定より伸びなかったため、ダイエー関係者は新規店舗の出店に徐々に慎重になってきていた。同年9月に新聞紙上で「プランタン出店打ち切り」との記事が掲載されると、それまで行政、議会、商工会議所三位一体で磐石に進められてきた誘致運動に影が差し始め、翌10月に中内社長が正式に「プランタン銀座店以外の店舗の縮小」「新規進出計画凍結」の方針を記者発表することで、事実上、中間市への進出計画は消滅した。 市制施行時から県立高校誘致の動きはあったが、当時中間市は住宅地の造成に力を入れていたこともあって、同じく黒崎地区の中学生の進学先に苦心していた八幡市の熱意が勝って福岡県立八幡南高等学校の設立となり、一方中間市では、1962年(昭和37年)4月に土手ノ内に「西日本電子工業専門学校(現在の希望が丘高等学校)」が開校することになった。また、1973年(昭和48年)ごろから再び県立高校誘致の動きが起こったが、市側が用意した用地に好地がなかったため、このときも北九州市に先を越され福岡県立北筑高等学校の設立となった。1980年(昭和55年)ごろから起こった三度目の誘致運動では、利便性の高い候補地を準備し、精力的な陳情が行われた結果、1983年(昭和58年)4月に待望の福岡県立中間高等学校が開校した。 そのころ、長年にわたって石炭輸送を担ってきた筑豊のローカル線は、石炭産業の終焉とモータリゼーションの進展により赤字化に拍車がかかっており、国鉄の累積赤字が膨らむにつれ廃止問題に揺れることとなった。1981年(昭和56年)運輸省を中心に赤字ローカル線の廃止基準が決定された結果、中間市の中間駅と北九州市八幡西区の香月駅とを結んでいた香月線も廃止の対象となり、その跡地は道路として整備することや、代替輸送は西鉄バスが行うこと、転換交付金はバス購入費や利用者への補償、道路整備費等に充当されることなどを盛り込んだ廃止案が了承された。1985年(昭和60年)3月31日をもって廃止された香月線の跡地の一部には、1988年(昭和63年)11月に市制施行30周年記念事業の一環として世界の石像のレプリカを配した「屋根のない博物館」が整備された。また、長く市民から要望のあった市立図書館が1987年(昭和62年)5月に、歴史民俗資料館が同年11月にオープンしたのは、文化の薫るまちづくりを進めた木曽市長らしい施策であった。
※この「ふるさと・中間の創造」の解説は、「中間市」の解説の一部です。
「ふるさと・中間の創造」を含む「中間市」の記事については、「中間市」の概要を参照ください。
- ふるさと・中間の創造のページへのリンク