『下官集』以後とは? わかりやすく解説

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『下官集』以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/31 00:07 UTC 版)

定家仮名遣」の記事における「『下官集』以後」の解説

下官集』はその後定家自筆本をその息子藤原為家所持していた。『下官集』の伝本には文永8年1271年10月15日年紀がある奥書を持つものがあり、それによればこの日、「権大納言」という人物のもとに為家(この時すでに出家している)が定家自筆の『下官集』を持って訪れ、「権大納言」はその自筆本すぐさまその場書き写したという。この「権大納言」とは当時27歳だった西園寺実兼のことではなかったかともいわれるが、この奥書にはほかに為家が説いた事として、「を・お・越」、「ゐ・い・ひ」、「え・ゑ・へ」の仮名遣いのことについても触れており、特に「を・お・越」については実例をあげて解説している。これは定家定めた仮名遣いその子為家におおむね伝わり、また子孫以外の者にも説かれていた早い例として注目すべきものである。 『国語学大系』に収める下官集』には、定家以外の者がのちに書き加えた他書からの引用、また仮名遣い例について増補された部分があり、さらに同じ内容繰り返すなど雑多な内容となっている。その奥書には弘安7年1284年7月文永3年1266年4月元徳元年1329年10月年紀があり、これら奥書加えた人物として「信昌」、「珍範」という署名見られる。それらがどのような人物であったかは不明であるが、『下官集』とその中にある定家定めた仮名遣いが、当時盛んに用いられていたことがうかがえる。また為家の没後定家自筆の『下官集』は二条家所持していたが、為家の息子冷泉為相内容増補された系統の本を、自らが鎌倉下向した折などに書写して人に与えていたという。定家古典書写校訂というごく限られた目的仮名遣い定めたが、それが当時教養層に広まり新たに創作され作品にもその仮名遣い使われるなど、改め仮名文字書き分けるための規範として使われるようになっていた。そしてそれは『下官集』に記されている以外の仮名遣い用例人々要求することになり、のちに行阿が『仮名文字遣』を著す背景となったのである14世紀後半行阿は『仮名文字遣』を著しその中で「嫌文字事」をもとにして「を・お・ほ」、「わ・は」、「む・う・ふ」の諸例大幅に増補した。『仮名文字遣』の序文冒頭には次のように見える。 京極中納言定家卿〉、家集拾遺愚草清書祖父河内前司〈干時大炊助〉親行に誂申されける時、親行申て云、を・お・え・ゑ・へ・い・ゐ・ひ等の文字の聲かよひたる誤あるによりて、其字の見わきがたき事在之、然間、此次をもて後学のために定をかるべき由、黄門に申処に、われもしか日来より思よりし事也、さらば主爨所存分書出して、可進由作られける間、大概如此注進の処に、申所悉其理叶へりとて、則合点せられ畢… — 仮名文字遣序文 これによれば仮名文字遣』に記される仮名遣いは、行阿祖父である親行が定家にその私家集である『拾遺愚草』の清書頼まれたことがあったが、そのとき親行が仮名遣いについて提案したところ、定家承認受けたものがもとになっているとするが、この話は定家権威利用するための虚構であろうといわれている。また行阿は弘法大師によって作られとされるいろは仮名四十七文字神聖視しており、それらは発音が同じであっても使い分けるべきであるとした。その仮名遣いについては「を」と「お」をアクセント区別するなど定家使い分け沿っているが、和歌使われる言葉だけではなく日常で使う言葉多く採られている。『仮名文字遣』は定家権威も預って仮名遣い規範として世に広まり、のちにその内容をさらに増補されながら用いられた。 しかし行阿が『仮名文字遣』を著したころ、日本語には大きなアクセントの変化起こりつつあった。その変化ひとつとしてそれまでアクセント低音の[wo](お)だったものが、高音の[wo](を)となる例が多く現れ、また現代語同じように、二つ上の言葉複合語になるとアクセント変化するようになっていたのであるそれまで複合語になっても、それぞれの言葉アクセント維持されていた)。これにより実際アクセントそれまで書いていた仮名遣いとは食い違うようになり、「を」と「お」をアクセント書き分ける方法は完全に混乱する。このアクセントの変化について当時の人々行阿含めて自覚することができず、定家定めた仮名遣いは「音にもあらず、儀(言葉の意味)にもあらず、いづれの篇(典籍)に付きさだめたるにか、おぼつかなし」(『仙源抄』)という批判を受けることにもなったが、以後仮名文字遣』はアクセントとは無関係の、慣例によって定められ仮名遣いとして使われることになる。 藤原定家によって権威づけをされた定家仮名遣歌人知識人中心に行われ一般に仮名遣い規範として知られた。それは歌人定家権威だけで受け入れられていたわけではなく仮名正書法として当時の社会認められ使われていたのである。しかし江戸時代になると国学者契沖が、仮名遣いについての「研究」を元禄8年1695年)に『和字正濫抄』として世に出し、定家仮名遣見られる仮名遣いは古い文献『万葉集』『日本書紀』など)に見えるものとは食い違っており、誤りがあると批判した。それに対し成員定家仮名遣擁護する立場から『倭字古今通例全書』を著して契沖反論し契沖はまたこれに反駁したが、結局それは仮名遣いについて、なぜそう書くのかの根拠を問う議論終始してしまった。 その後契沖の『和字正濫抄』は国学者の間に広く支持されたが、定家仮名遣歌壇中心に支持され続けた表記根拠がどうであろうと、それまで長らく尊重され使われてきた定家仮名遣規範としてすでに認められており、これを使い続けるのに特段不都合はなかったからである。そしてこの状況は『和字正濫抄』で説かれ契沖仮名遣を、明治政府学校教育採用するいわゆる歴史的仮名遣採用)まで続いた。現在では、定家仮名遣学問的に歴史的な仮名遣不完全なものとして見做されている。

※この「『下官集』以後」の解説は、「定家仮名遣」の解説の一部です。
「『下官集』以後」を含む「定家仮名遣」の記事については、「定家仮名遣」の概要を参照ください。

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