『下官集』以後
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『下官集』はその後、定家の自筆本をその息子藤原為家が所持していた。『下官集』の伝本には文永8年(1271年)10月15日の年紀がある奥書を持つものがあり、それによればこの日、「権大納言」という人物のもとに為家(この時すでに出家している)が定家自筆の『下官集』を持って訪れ、「権大納言」はその自筆本をすぐさまその場で書き写したという。この「権大納言」とは当時27歳だった西園寺実兼のことではなかったかともいわれるが、この奥書にはほかに為家が説いた事として、「を・お・越」、「ゐ・い・ひ」、「え・ゑ・へ」の仮名遣いのことについても触れており、特に「を・お・越」については実例をあげて解説している。これは定家の定めた仮名遣いがその子為家におおむね伝わり、また子孫以外の者にも説かれていた早い例として注目すべきものである。 『国語学大系』に収める『下官集』には、定家以外の者がのちに書き加えた他書からの引用、また仮名遣いの例について増補された部分があり、さらに同じ内容を繰り返すなど雑多な内容となっている。その奥書には弘安7年(1284年)7月と文永3年(1266年)4月、元徳元年(1329年)10月の年紀があり、これら奥書を加えた人物として「信昌」、「珍範」という署名が見られる。それらがどのような人物であったかは不明であるが、『下官集』とその中にある定家の定めた仮名遣いが、当時盛んに用いられていたことがうかがえる。また為家の没後、定家自筆の『下官集』は二条家が所持していたが、為家の息子冷泉為相は内容が増補された系統の本を、自らが鎌倉に下向した折などに書写して人に与えていたという。定家は古典の書写校訂というごく限られた目的で仮名遣いを定めたが、それが当時の教養層に広まり、新たに創作された作品にもその仮名遣いが使われるなど、改めて仮名文字を書き分けるための規範として使われるようになっていた。そしてそれは『下官集』に記されている以外の仮名遣いの用例を人々が要求することになり、のちに行阿が『仮名文字遣』を著す背景となったのである。 14世紀後半、行阿は『仮名文字遣』を著し、その中で「嫌文字事」をもとにして「を・お・ほ」、「わ・は」、「む・う・ふ」の諸例を大幅に増補した。『仮名文字遣』の序文冒頭には次のように見える。 京極中納言〈定家卿〉、家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司〈干時大炊助〉親行に誂申されける時、親行申て云、を・お・え・ゑ・へ・い・ゐ・ひ等の文字の聲かよひたる誤あるによりて、其字の見わきがたき事在之、然間、此次をもて後学のために定をかるべき由、黄門に申処に、われもしか日来より思よりし事也、さらば主爨が所存の分書出して、可進由作られける間、大概如此注進の処に、申所悉其理叶へりとて、則合点せられ畢… — 仮名文字遣・序文 これによれば『仮名文字遣』に記される仮名遣いは、行阿の祖父である親行が定家にその私家集である『拾遺愚草』の清書を頼まれたことがあったが、そのとき親行が仮名遣いについて提案したところ、定家の承認を受けたものがもとになっているとするが、この話は定家の権威を利用するための虚構であろうといわれている。また行阿は弘法大師によって作られたとされる「いろは仮名」四十七文字を神聖視しており、それらは発音が同じであっても使い分けるべきであるとした。その仮名遣いについては「を」と「お」をアクセントで区別するなど定家の使い分けに沿っているが、和歌で使われる言葉だけではなく日常で使う言葉も多く採られている。『仮名文字遣』は定家の権威も預って仮名遣いの規範として世に広まり、のちにその内容をさらに増補されながら用いられた。 しかし行阿が『仮名文字遣』を著したころ、日本語には大きなアクセントの変化が起こりつつあった。その変化のひとつとして、それまでのアクセントで低音の[wo](お)だったものが、高音の[wo](を)となる例が多く現れ、また現代語と同じように、二つ以上の言葉が複合語になるとアクセントが変化するようになっていたのである(それまでは複合語になっても、それぞれの言葉のアクセントは維持されていた)。これにより実際のアクセントがそれまで書いていた仮名遣いとは食い違うようになり、「を」と「お」をアクセントで書き分ける方法は完全に混乱する。このアクセントの変化について当時の人々は行阿も含めて自覚することができず、定家の定めた仮名遣いは「音にもあらず、儀(言葉の意味)にもあらず、いづれの篇(典籍)に付きてさだめたるにか、おぼつかなし」(『仙源抄』)という批判を受けることにもなったが、以後『仮名文字遣』はアクセントとは無関係の、慣例によって定められた仮名遣いとして使われることになる。 藤原定家によって権威づけをされた定家仮名遣は歌人や知識人を中心に行われ、一般にも仮名遣いの規範として知られた。それは歌人定家の権威だけで受け入れられていたわけではなく、仮名の正書法として当時の社会に認められ使われていたのである。しかし江戸時代になると国学者の契沖が、仮名遣いについての「研究」を元禄8年(1695年)に『和字正濫抄』として世に出し、定家仮名遣に見られる仮名遣いは古い文献(『万葉集』や『日本書紀』など)に見えるものとは食い違っており、誤りがあると批判した。それに対し、橘成員が定家仮名遣を擁護する立場から『倭字古今通例全書』を著して契沖に反論し、契沖はまたこれに反駁したが、結局それは仮名遣いについて、なぜそう書くのかの根拠を問う議論に終始してしまった。 その後、契沖の『和字正濫抄』は国学者の間に広く支持されたが、定家仮名遣は歌壇を中心に支持され続けた。表記の根拠がどうであろうと、それまで長らく尊重され使われてきた定家仮名遣は規範としてすでに認められており、これを使い続けるのに特段の不都合はなかったからである。そしてこの状況は『和字正濫抄』で説かれた契沖仮名遣を、明治政府が学校教育で採用する(いわゆる歴史的仮名遣の採用)まで続いた。現在では、定家仮名遣は学問的には歴史的な仮名遣の不完全なものとして見做されている。
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